明智光秀どんな人。 【大河ドラマで話題】明智光秀とはどんな人?家紋や子孫を年表付で紹介

明智光秀ってどんな人?何をした人?【わかりやすく簡単な言葉で解説】

明智光秀どんな人

浪人ののち越前の朝倉義景に仕える 1568年(41歳)足利義昭と織田信長を会見させる。 足利義昭が第15代将軍となる 1571年(44歳)比叡山焼き討ちの武功で近江国(滋賀県)5万石を与えられる 1572年(45歳)近江国に坂本城築城し、居城とする 1578年(51歳)丹波国に亀山城を築城し、2つめの居城にする 1579年(52歳)丹波国を平定。 のち丹後国も平定し、信長より感状をもらう 1580年(53歳)信長より丹波一国29万石を加増され、計34万石を領する 1581年(54歳)軍事パレード、京都御馬揃えの運営を取り仕切る 1582年(55歳)本能寺の変で信長・信忠父子を自害に追い込む。 羽柴秀吉との山﨑の戦いで敗死 明智光秀の生涯 明智光秀は織田信長に出会ったからこそ、彼の人生が光り輝き、そして暗転します。 もちろん彼は努力で道を切り拓き、戦国の世の先頭グループを走った実力者です。 しかし、光秀の生涯は、良くも悪くも織田信長に左右されたことに違いありません。 よくわからない光秀の前半生 明智光秀には、生年、出身地、彼の出自などの 明確な記録はありません。 清和源氏の血を引く土岐家の一族で、美濃国(岐阜県)出身だったとみられています(近江国説もあり)。 彼の家は、土岐氏に替わって美濃国を統治した斎藤道三に仕えていました。 しかし1556年、斎藤家の内紛で道三の息子・義龍に攻撃されて明智城は落城。 光秀は浪人の身分となりました。 貧窮した生活の末、越前国(福井県)の朝倉義景に仕えます。 1565年の将軍・足利義輝の暗殺後、義輝の弟・義昭が朝倉義景を頼ってきたことで、光秀は、義昭との接点を持ちます。 光秀、実力発揮 しかし朝倉義景は、将軍になりたい足利義昭の期待通りに動きません。 そこで光秀は、織田信長の正室・ 帰蝶 きちょう(または濃姫)の縁者だった関係から、義昭に信長をつなぎます。 おかげで、義昭は織田信長に奉じられる形で上洛し、1568年に第15第将軍となりました。 当初、将軍義昭の幕臣であり、信長の家臣であった両属の立場にあった光秀は、いつしか信長の下で活躍し始め、重臣となっていきます。 1570年には 金ヶ崎の戦いで木下秀吉と共に決死の 殿 しんがりを全うして信長を救い、翌年には 比叡山焼き討ちで武功も挙げました。 近江国に5万石を拝領し、居城・坂本城を築いて順風満帆です。 その後も、長篠の戦い、一向一揆の平定などで活躍し、難しい丹波平定を成功させたときは、信長から感状と29万石の丹波一国を加増されています。 武功だけではなく、1581年の軍事パレード・京都お馬揃えの運営責任者として成功させたのも彼でした。 こうして光秀は、34万石持ちの大名に出世したのです。 本能寺の変と山﨑の合戦 1582年、信長から徳川家康の 饗応役 きょうおうやくの任務を急に解かれた光秀は、中国地方での毛利攻めの援軍出撃を命じられます。 ところが彼は、羽柴秀吉の援軍として備中へ行かず、京都の本能寺に宿泊していた織田信長を攻撃しました。 100名ほどの近習だけに守られた手薄の信長は、光秀の1万3千の軍には適わず、寺に火を放って自害してしまいました。 同時に、信長の嫡男・織田信忠も二条御殿で明智軍と戦ったのち、自害。 光秀の謀反は成功し、彼が天下人となったのです。 すると羽柴秀吉は、信長の訃報を聞いてすぐに毛利氏と和睦をし、中国地方から京まで超スピードで引き返す「中国大返し」を実行。 光秀軍は秀吉軍と京の山﨑で激突しました。 ところが、細川氏をはじめ光秀が当てにしていた武将たちは彼に従いません。 秀吉軍3万人、光秀軍1万3千人の兵力の差に泣いて光秀軍は敗北しました。 坂本城を目指して敗走した光秀は、途中落ち武者狩りで重傷を負い、家臣の介錯による形で生涯を終えてしまったのです。 明智光秀には人望があったのか? 信長に重用されていた光秀 気性の激しい信長が、光秀につらく当たり、その怨恨が光秀の信長を襲った本能寺の変の動機だったとも言われます。 しかし、優秀な光秀が信長に重宝されていたのは事実です。 ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの記録『日本史』には、 ・裏切りや密会が好き ・主君とその恩恵にあずかることをわきまえていた ・自分への主君からの寵愛を保ち、さらに大きくさせるための不思議な器用さを備えていた ・友人たちに人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた ・刑を科するに残酷 ・殿内にあって彼はよそ者であり、ほとんど全ての者から快くおもわれていなかった これによる光秀は、 裏表のある狡猾なイメージです。 しかも、中途採用で信長軍に加わった光秀は外様として、他の武将たちから一線を引かれていたようです。 山﨑の戦いでは期待した古い友人の細川藤孝とその息子・忠興、筒井順慶などの武将たちから味方されなかった光秀の一因はここにあったかもしれません。 光秀=天海の生存説も 光秀が山﨑の戦いの後、名を変えて生きていたという生存説がいくつかあります。 中でも僧・ 南光坊天海となって徳川家康の幕僚として活躍した、という話はかなり根強い説の一つです。 徳川家康を祀った日光東照宮の陽明門にある随身像や建物には、葵の紋ではなく明智光秀の家紋である 桔梗紋が多数見られること、徳川の時代になってから 光秀に関わる者たちが優遇されたことなどがその理由です。 光秀は統治していた領民からの評判がよく、領主を慕う彼らの願いが生存説となったのかもしれません。 明智光秀の墓所 谷性寺 古刹・ 谷性寺 こくしょうじは、「光秀寺」とも呼ばれる明智光秀ゆかりの寺です。 初夏には光秀の家紋である桔梗が咲き乱れ、「桔梗寺」とも言われます。 山﨑の戦いに敗れた光秀の介錯された首が当寺に葬られ、首塚はその光秀の心を鎮めるために幕末に建立されました。 <京都府亀岡市宮前町猪倉土山39> 西教寺 比叡山南東山麓にある 天台真盛宗 てんだいしんせいしゅうの総本山です。 1571年の延暦寺焼き討ちで焼失しましたが、その後に光秀が寺の復興に尽力したことから、光秀一族の墓があります。 毎年6月14日の明智光秀の命日には、追善供養が行われ、全国から明智光秀ファンが参列します。 <大津市坂本5-13-1> きょうのまとめ 今回は日本史上最も有名な下克上を行った張本人、明智光秀の生涯についてご紹介しました。 優秀で狡猾で、嫌われたかと思えば生存説が生まれるほど慕われた明智光秀。 彼の人物像は見る者によってさまざまに受け取られています。 関連記事 >>>> 関連記事 >>>> 関連記事 >>>> 関連記事 >>>> 関連記事 >>>> 関連記事 >>>> 関連記事 >>>> 関連記事 >>>> その他の人物はこちら 安土桃山時代に活躍した歴史上の人物 関連記事 >>>> 時代別 歴史上の人物 関連記事 >>>>.

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大河ドラマ「麒麟がくる」の明智光秀ってどんな人だったの?

明智光秀どんな人

明智光秀とはどんな人物か? 名前 明智光秀 誕生日 1528年(明智軍記説)もしくは1512年(当代記説) 没日 1582年7月2日 没地 下関市桜山 配偶者 玉 光慶 光泰 乙寿丸 埋葬場所 滋賀県大津市西教寺 京都府亀岡市谷性寺 和歌山県高野町奥の院 なぜ明智光秀は織田を殺したの? 明智光秀は織田信長を本能寺で殺害した原因の一つとして四国に対する外交問題があります。 戦国時代の四国には長宗我部元親という大名が勢力を拡大して勢いを伸ばしておりました。 織田信長は明智光秀に四国の長宗我部に対して織田家へ従わせるように命令。 明智光秀は重臣である斎藤利三の娘を長宗我部元親の元へ嫁がせることに成功します。 しかし本能寺の変が起きる2年前、織田信長は四国に対して長宗我部元親を織田家に従わせるよりも、自分の領土にしたほうがいいと外交方針の転換。 明智光秀は四国に対しての方針転換に反対しますが、織田信長の方針を覆すことができず、面目を潰されてしまいます。 そのため明智光秀は織田信長に対して怒りを感じ、本能寺で殺害したとされています。 明智光秀の出身やゆかりの地は? 明智光秀の出身地は諸説があります。 明智光秀の出身地の有名な説は美濃(みの、現在の岐阜県)で、「立入隆佐記」によれば美濃国住人と記されています。 また現在岐阜県には明智と呼ばれる地名が二ヶ所あるから有力な説として言われています。 しかし近年、明智光秀は近江(現在の滋賀県)出身だったのではないかと言われています。 その理由として「淡海温故録」という書物に明智光秀の二、三代前の明智家の当主が近江に住んでおり、この当主の結縁者が明智光秀だと言われている説が出現しています。 このように明智光秀は出身地が謎に包まれておりますが、現在の所美濃国出身の武将だと言われています。 明智光秀の妻や子孫、家族構成は? 明智光秀の奥さんは妻木煕子(つまきひろこ)と言います。 彼女は明智光秀が越前朝倉家に仕えて間もない頃、お金がなくて苦しい時、自分の髪の毛を売って光秀を支えていたエピソードが残っています。 このように妻木煕子は明智光秀を支えてきた糟糠の妻と言える存在で、彼との間には三男四女を設けます。 長男明智光慶• 次男明智光泰• 三男明智乙寿丸• 長女明智光春の奥さん(名前不明)• 次女明智光忠の奥さん(名前不明)• 三女細川ガラシャ(明智珠) 明智光秀はなぜ水色の家紋を使用したの? 戦国時代には多くの旗に自分の家の家紋を描いて、戦場へ赴きます。 明智光秀が水色の家紋を使用した理由は、光秀が美濃の名族である土岐氏の支流だったからです。 土岐氏は桔梗紋を水色に塗った家紋を使用していました。 そのため土岐氏の支流であった明智光秀は土岐氏が使用していた家紋を受け継いで使ったとされています。 明智光秀と織田信長はどんな仲だった? 明智光秀は織田信長を本能寺の変で殺害しているので、明智光秀と織田信長の関係は良くないと思っている方も多いと思います。 しかし光秀と信長の関係は仲が悪かったわけではありません。 明智光秀は織田信長から信頼されていました。 その証拠として、織田信長は佐久間信盛を追放する際に出した書状の中で「丹波の国を平定した日向守(明智光秀の官職名)の働き天下の面目をほどこし候」と絶賛。 また織田信長は明智光秀が仕え始めにも関わらず、要衝である京都の行政を担当するチームに抜擢されています。 これらのことから織田信長は明智光秀を信頼していたと言えます。 明智光秀のふたりの君主に仕えていた? 明智光秀は織田家で能力を発揮した武将ですが、かなり苦労した戦国武将でした。 明智光秀は織田信長に仕える前、越前の朝倉家に仕えていました。 しかし朝倉家の給料は薄給で、収入面で非常に苦労をしていたそうです。 また明智光秀は織田家に仕えた始めた頃、足利幕府の将軍である足利義昭にも仕えていました。 そのため織田信長と足利義昭が揉めた際、間に立って仲裁しなくてはならなかったため、とっても苦労していたエピソードが残っています。 明智光秀は優秀が故に苦労ばかりしていた? 明智光秀は織田信長に仕えすぐに頭角を表し、大きな兵力を与えられることになります。 しかし明智光秀にとって大きな兵力を与えられることによって苦労することになります。 明智光秀は自分が攻略する担当地域があるにも関わらず、織田信長から色々な戦線へ向かわされ、へとへとになってしまいます。 その結果、明智光秀は体調を崩して病にかかってしまったそうです。 明智光秀の名言は? 敵は本能寺にあり 鳴かぬなら私が泣こうホトトギス。 仏の嘘をば方便といい、武士の嘘をば武略という。 これをみれば、土地百姓は可愛いことなり。 明智光秀とはなにがすごいのか?功績は? すごさ1「織田家で最初に家法を制定」 織田家は織田信長が作り出した国の法律はありますが、織田軍の司令官クラスに所属している豊臣秀吉や柴田勝家、丹羽長秀らは自分軍隊の中での軍律を確立することなく、戦いを行っていました。 しかし明智光秀は織田家の中で一番早く、軍隊の規律と呼べるものを策定します。 明智家の軍律は1条~18条まであり、軍団の秩序や規律、軍役について記されています。 また明智光秀は軍の兵士が平定した土地で乱暴などを働かないように礼節などについて書かれている部分もあるそうです。 すごさ2. 「教養を持った戦国武将」 明智光秀は高い教養を持った戦国武将でした。 例えば明智光秀は連歌が好きで本能寺の変がおきる数日前に行った「愛宕山」での連歌会や坂本城を築城した時にも連歌を歌い上げています。 また明智光秀は戦国時代に流行っていた茶の湯にハマり、有名な茶道家である千利休へ弟子入りして学んでいます。 他にも和歌を嗜み「我ならで誰かはうえむひとつ松こころしてふけ志賀の浦かぜ」と言う歌をよんでいます。 このように明智光秀は戦国時代の武将には珍しく教養を持った人物だったのです。 明智光秀にまつわる都市伝説・武勇伝 都市伝説・武勇伝1「合理主義者だった明智光秀」 明智光秀は比叡山延暦寺を焼き討ちした際、比叡山延暦寺が保有していた領土をすべて没収し、自らの領土にしています。 明智光秀は織田信長が行った比叡山延暦寺の焼き討ち作戦には反対していたとされる説も存在していますが、どちらが本当の明智光秀だったのかは、定かになっていません。 もし前説が明智光秀の性格だったとすれば、合理主義者としての考え方を持っていたことになります。 都市伝説・武勇伝2「実は明智光秀は死んでいなかった?」 明智光秀は本能寺の変の後、豊臣秀吉と戦って敗北し、農民によって討ち取られたとされています。 しかし一説によると明智光秀は討ち取られずに生き残って、徳川家康に仕えた南光坊天海と言われています。 南光坊天海が明智光秀かもしれない可能性として徳川家康が祀られている日光東照宮には明智光秀が使用していた水色桔梗の家紋があるそうです。 明智光秀=南光坊天海かどうか分かりませんが、強く否定できる要素も無い為、謎のままになっています。 あなたはどう思いますか。 明智光秀の早見年表 明智光秀の具体年表 1528年 — 0歳「明智光秀誕生」 明智光秀は享禄元年(1528年)に美濃の明智家で誕生します。 家族構成は下記の通りです。 父:明智光綱• 母:お牧の方• 長男:明智光秀• 次男:明智信教• 三男:明智康秀 明智光秀の出自は未だに謎が多く彼の幼少期に関する確実な資料が無い為、信憑性の低い資料によれば、幼少期に斎藤道三へ仕えていたそうです。 その後明智光秀は斎藤道三と息子である斎藤義龍との戦いで斎藤義龍が勝利したため、父の居城である明智城が陥落し、一家が離散されたと言われています。 1569年 — 41歳「本圀寺防衛戦に参加」 明智光秀は足利義昭が寄宿していた本圀寺が三好家の襲撃を受けた際、足利義昭を守るため、本圀寺防衛戦に参加。 この戦いで明智光秀は初めて軍功を上げることに成功します。 京都の行政担当チームに加わる 明智光秀は丹羽長秀や羽柴秀吉たち織田家の人々と室町幕府の奉行役人と一緒に荘園保護を担当します。 また明智光秀はこの仕事の他に京都の行政担当チームに配属されます。 1571年 — 43歳「比叡山焼き討ち作戦に参加」 明智光秀は織田信長が実行した比叡山焼き討ち作戦に参加。 この作戦後明智光秀は比叡山の領土や近江志賀郡を与えられます。 明智光秀は領地を拝領した後、天守や小天守がある坂本に城を築城して、坂本城を居城として定めます。 織田信長を主と定める 明智光秀は足利義昭と織田信長の二人の君主に仕えていました。 そのため明智光秀は足利義昭と織田信長の板挟みなる事が多くかったそうです。 しかしこの年足利義昭が明智光秀を責める事件が勃発。 織田信長は明智光秀をかばいます。 その結果、明智光秀は足利義昭に見切りをつけて主従関係の縁を切って、織田信長を主と定めることにします。 1575年 — 47歳「丹波・丹後攻略を命じられる」 明智光秀は織田信長から丹波・丹後の攻略を命令されます。 明智光秀は織田信長の期待に応えるべく丹波・丹後の攻略戦に邁進していくことになります。 明智光秀は丹波の宇津氏や内藤氏を討伐するべく何度も出陣し、功績を残していきます。 しかし明智光秀は丹波・丹後攻略だけに集中するわけには行かず、越前の一向一揆の反乱鎮圧や河内にある高屋城攻略戦などの戦に参加することになり、丹波・丹後攻略は中々捗らなかったようです。 1579年 — 51歳「丹波・丹後の攻略を完了する」 明智光秀は織田信長から丹波・丹後の攻略を命じられていましたが、各地の戦線に参加させられていたため、丹波・丹後に集中することができませんでした。 しかし少しずつ丹波・丹後の大名たちを討伐していき、命令を受けてから4年後、丹波・丹後の攻略を成し遂げます。 織田信長は明智光秀が丹波・丹後の攻略を成功させたことを高く評価し、明智光秀へ感状を送って、彼を褒めたたえます。 1582年 — 54歳「徳川家康の接待役に命じられる」 明智光秀は織田家の長年の同盟者である徳川家康の接待を織田信長から命じられます。 明智光秀は徳川家康をもてなすため、近隣の名物を取り寄せて家康をもてなす準備を行いますが、織田信長から接待についての内容について叱られて、何度も叩かれたそうです。 その後明智光秀は中国地方の司令官であった豊臣秀吉の援軍を織田信長から命令されたため、居城亀山城へ帰還することになります。 愛宕参詣 明智光秀は豊臣秀吉の援軍に向かう前、愛宕山にお参りをした後、里村紹巴らと一緒に連歌会を行います。 この時に明智光秀は後世にまで残る「時は今あめが下知る五月哉」の歌を歌っています。 本能寺で織田信長を殺害 明智光秀は愛宕山で連歌を行った後、豊臣秀吉を助けるため援軍を率いて出陣しますが、途中で方向を変えて、織田信長が寄宿している本能寺へ。 明智光秀は本能寺に到着すると、本能寺を包囲して、織田信長が寄宿している本能寺へ総攻撃を開始。 織田信長は明智軍に対して抵抗しますが、少数の兵士か伴っていないため勝つことができないと判断し、本能寺へ火を放って自害します。 こうして明智光秀は織田信長を殺害し、二条城に寄宿していた織田信長の嫡男である織田信忠も殺害し、謀反を成功させます。 こうして織田信長、信忠親子を倒し天下統一へ近づいた光秀ですが、彼に悲運が訪れます。 豊臣秀吉と対決 明智光秀は織田信長を殺害後、機内を掌握するべく手を打っていきますが、豊臣秀吉率いる軍勢が大坂辺りに到着したことを知って、彼と対決するため出陣。 明智光秀率いる明智軍と豊臣秀吉率いる軍勢は山崎の地で合戦を行います。 当初は明智軍が優勢でしたが明智軍よりも多い兵力を保有していた豊臣軍が明智軍を押し切って勝利を手にします。 戦に敗北した明智光秀は豊臣軍の追撃を逃れて、近江にある坂本城へ向けて側近を引き連れて逃亡していきます。 農民に襲われて討ち死に 明智光秀は近江にある坂本城へ逃亡するため、坂本城の途上にある小栗栖を通過。 この地で反乱を起こした農民たちが明智光秀を襲撃します。 明智光秀は農民たちを退けることができず、彼らの手にかかって亡くなってしまうのでした。 享年55歳だったそうです。 天下統一に王手をかけた明智光秀ですが、自分のやりたいような政治も行えず、天下を統治することもできずに亡くなってしまう悲運の名将と呼べるのではないでしょうか。 明智光秀の関連作品 おすすめ書籍・本・漫画 国盗り物語 来年の大河ドラマ「麒麟がくる」の次回予告動画です。 明智光秀を長谷川博己が織田信長を染谷翔太が演じています。 他にも明智光秀の親友である細川藤孝を眞島秀和が演じており、豪華キャストが出演。 一体どのような明智光秀の歴史が放映され、「本能寺の変」はどのような結末を迎えるかなど見どころ満載で筆者は楽しみで仕方ありません。 関連外部リンク• 明智光秀についてのまとめ いかがでしたか。 明智光秀について彼の出身地や一族について解説させていただきました。 私は明智光秀を小学校の歴史の教科書で初めて知ったのですが、その後戦国時代にハマった時、必ず明智光秀が登場してくるのでどのような人物なのか詳しく知るため、小説や歴史的な資料などを読み漁りました。 そして歴史的な資料を読み漁れば漁るほど彼についての諸説が色々と出現するため、どの説を選択すればいいのか非常に困惑しました。 ですが、一つだけ彼に関して言えるのは、彼が戦国時代において戦術面や謀略面、教養面においての名将であることです。 この記事を読んで明智光秀のことを一人でも多く知っていただければ幸いです。

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明智光秀はどんな人だったの?

明智光秀どんな人

この記事の最期の方から、興味のある箇所の詳細をご覧いただけるようになっています。 ) 歴史は勝者によってつくられるというように、負けた側の光秀の史料は乏しく実像は謎に包まれており、特に前半生についての通説は史料価値は低いとされる二次、三次史料を参考にしたとされており、どこまで正しいのかわかりませんが、光秀がどんな人か現在の通説を簡単に記します。 光秀はどんな人生 光秀の父は美濃 みの の 斎藤道三(さいとう どうさん)に仕えたとされており、光秀もこれに従っていたものと推測されています。 しかし、道三は息子の齋藤義龍(さいとう よしたつ)と争い敗北します。 道三側についていた光秀は、義龍に明智城を攻められ落城し、 一族は離散することになります。 定かではありませんが、父も討死したと伝わります。 その後、光秀は浪人し、その際に鉄砲の技術や、和歌といった教養を身に着けたとも云われています。 そして10年間、越前国(えちぜんのくに) 福井県 の 朝倉義景(あさくら よしかげ)に仕えたとも云われていますが定かではありません。 ただ、光秀が越前国にいたのは、事実のようで光秀の書状が残っています。 また、近年新たな史料が発見され、光秀が越前の朝倉家秘伝の薬の知識があったことが分かりました。 そして、越前に居た頃の知り合いが、光秀が坂本城主になった時に尋ねてきた記録も見つかりました。 これにより、朝倉家の家臣説が本当かもしれないと見なされています。 足利義昭 光秀は信長の下で数々の戦に従事し手柄をあげます。 以前の主君であった朝倉義景の討伐戦・ 金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)に参加し、秀吉と共に殿を務めて帰還に成功したり、信長の残虐さが伝わる 比叡山焼き討ちでは、中心的な実行者となります。 こうして功績を重ね1575年に、朝廷より惟任(これとう)の姓を賜り、従五位下日向守に任官を受け、 惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)となります。 その後も従軍し、難易度の高い 丹波国の平定も成し遂げて、この頃、柴田勝家 しばた かついえ 、羽柴秀吉 はしば ひでよし らと並ぶ重臣としての地位を確立したとされています。 しかし、秀吉の毛利攻めの援軍に出陣した光秀は、途中で家臣に信長を成敗する意思を伝えて京都へ向かい 本能寺の変を起こします。 その後、二条御所にいた信長の嫡男・信忠( のぶただ も自害に追い込みますが、わずか11か12日後に、 山崎の合戦で秀吉に敗れて敗走中に落ち武者狩りにあい自害したとされます。 明智光秀の天下は11日ないし12日間だったとされており、「 三日天下」と呼ばれるようになります。 明智光秀の新しく見つかった史料についての記事です。 また、こうした謀反人のイメージとは違う面も伝わっています。 光秀の優しさが伝わる 妻・ 煕子 ひろこ との話は有名ではないでしょうか。 煕子は光秀と婚約時代に疱瘡 ほうそう にかかり、顔に痘痕 あばた が残ってしまったといいます。 結婚を辞退しようとした煕子に、「大切なのは美しい心」だといい結婚し、夫婦睦まじく暮らしたと伝わります。 詳細はこちらの記事に書いています。 👇 また光秀の 領民想いな面も伝わっています。 光秀は丹波国 たんばのくに を治めていましたが、領民を苦しめていた川の氾濫を抑える治水工事をしたり、地子銭(土地税・住宅税に相当)を免除するなど領民想いの善政を敷いたこと伝わります。 丹波の地では現在も慕われ、明智光秀を祀った神社もあります。 光秀と丹波の国についてはこちらにまとめています。 👇 以前の裏切り者光秀から、妻や領民想いな上、教養のある智将でもあるとされ、光秀がどんな人であったのか近年変りつつあります。

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