創価 学会 総本部。 創価学会は日蓮宗ですか?総本山身延山久遠寺といっしょですか?

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私は学会員ではありませんが、とても興味深く拝読させていただきました。 今般の学会の会則変更は、まさに「毒を食らわば皿まで」というべき大胆不敵な内容であり、詳しい資料や過去の発言を通して理路整然とその不当性を詳らかにする論理展開は「ナルホド」と思わせます。 ただ、「御遺命の戒壇」乃至「本門戒壇」の姿については言及が甘く、わざとぼかして書いてある印象を受けました。 また、「国立戒壇」を巡って宗門、学会、妙信講 顕正会 の間で激しい教義論争があった事実、それが学会破門の遠因となった事実に関して全く言及がないのはアンフェアかな と思いました。 また、海外弘通の話はさして強調する必要は無い様に思いました。 総じて内容は良いので、全学会員には読んでみてほしいですね。 周りに創価学会信者が多く、入信を迫られることが多々あり、なぜ、池田大作氏をまるで生き神様のように信仰しているのか、勤行経典に疑問があった。 彼らの言う「南無妙法蓮華を唱えれば、すべてが救われる。 正しい教えはこれしかないのだ」と力説する姿も、まるでマインドコントロールされているようにしか見えなかった。 そこで、本書を購入。 日蓮の教えを放棄し、自分たちの都合のいいように信仰の対象を置き換えるなど、創価学会の怪しさが浮き彫りになり、きっぱりと入信を断ることができた。 大御本尊根本の大義を捨てた創価学会の教義変更を批判した書。 日蓮正宗僧俗の必読書といえるだろう。 大御本尊を捨てるとはまた大変なことをやってくれたものである。 日蓮正宗信徒として許し難い大罪である。 が、しかし、冷静に考えると創価学会は20年以上前に日蓮正宗から破門されて既に日蓮正宗信徒ではない。 その創価学会が大御本尊根本を捨てたところで日蓮正宗には関係ないことなのではないか。 許し難いというのは自分の信徒に向けて言う言葉であってよその団体の人たちに使う言葉ではないだろう。 この本を読んでまず気付くのはほとんどが過去から使い古された主張や文献の焼き直しであること。 創価学会を激しく批判する威勢のよさとは裏腹に日蓮正宗教学の弱点が補強されていない。 歴代の御法主上人や歴代会長の大御本尊に関する発言が羅列されているが決定的な大御本尊の揺るがぬ優位性を証明する文献は相変わらず登場していない。 たいへん残念だが日蓮正宗教学には弱点や矛盾点がいくつか存在する。 創価学会は大御本尊という根本をはずすことによってこれらの弱点や矛盾点から解放されてしまったという見方もできる。 ここ数年の池田の本尊論を拾ってみると彼は根本の本尊というものから卒業してしまっているように見える。 法を中心とした哲理を再構築して日蓮正宗教学の矛盾点を消し去ろうとしているようだ。 御本尊はその日蓮大聖人からの哲理を記号化した広宣流布の旗じるしと池田は定義している。 大聖人の教学との整合性もとられている。 池田の論理を使えば大御本尊の脇書きの矛盾点や御開眼による正邪の区分の矛盾点が解決してしまう。 この流れをふまえて近い将来を予測すると創価学会は数年後に再び会則を改訂するだろう。 そのときはもはや日蓮正宗教学の多くの部分を捨て去ることになる。 創価学会にとって日蓮正宗教学は大聖人の仏法から見た天台教学の位置になるにちがいない。 以下、この本の内容に関する詳細なレビューです。 本の体裁としては全体を通して戒壇の大御本尊を賛嘆した過去の創価学会の論文や記事が多数掲載されていてよくまとめたものだと思う。 しかし、使い古された文証ばかりであることが否めないのも事実。 相変わらず池田の発言は広布と人生を語るからの引用が目立つ。 平成に入ってからの池田の発言は掲載されていない。 ここ20年の池田の発言に対抗し破折できる力が日蓮正宗にはないのだろう。 この本で創価学会が御本尊を認定するという一文に噛み付いているが要するに創価学会は大聖人や歴代の上人方の御本尊ならばいずれを拝しても構わないということに基本を統一したのだろう。 ただそうなると身延や他の日蓮系寺院にある御真筆も信受できることになるので混乱を避けるための線引きとして認定という単語を使用したと思われる。 保田妙本寺のように大聖人御真筆の御本尊を御安置する寺院が日蓮正宗に来れば正統で日蓮正宗から離れれば邪宗というのでは御真筆がどこで正邪を区切るのか説明がつかない。 御真筆が御法主上人の御開眼で正邪が変わるのであれば御法主上人は大聖人より上ということになるのではないか。 御真筆は御真筆で変わりないだろうという自然な発想にあわせた対応のように思うのだが。 相変わらず創価本尊がニセ本尊という批判が一問一答に出ている。 それならば戒壇の大御本尊を謹刻した日法上人は最終的には日興上人のもとを去っている。 御宗門の論法を借りれば恐れ多いことだが大御本尊は謗法ということになってしまうかもしれない。 御法主の御開眼があるから問題ないのだろうが一体謗法やニセモノとは何だろうという素朴な疑問が残る。 創価学会本尊は破門された混乱の中での緊急避難的措置だったのかもしれないが御開眼による正邪の区分は論理として限界があるように思う。 確かに戒壇の大御本尊は根本だろう。 だが聖人御難事の余は二十七年なりの文以外に弘安2年の出世の本懐を裏付ける文献が存在しないことやそもそも戒壇の大御本尊として御安置している御本尊が戒壇の大御本尊に当たることを裏付ける証拠に乏しいなど曖昧な点を打ち破る論陣が張られていない。 残念ながら日蓮正宗は二箇相承書さえも紛失してしまっていて自宗の正当性を証明する術さえも失っているのだ。 総本山大石寺も創建当時にまで遡れる建築物は1棟もない。 日興上人の時代に大坊があったと伝えられている場所、というような伝説の場所は存在するが身延離山の頃の大石寺寺域の詳細は不明。 御影堂は新築されたか移築されたのかさえ不明。 不開門はいつ誰が建立したのか不明。 確たる物的証拠がない為日興上人が開かれた寺院は別の場所に存在したと主張する人物さえいる。 恐れながら大御本尊の授与書きの弥四郎国重が誰なのかも明確になっていない。 この本を丹念に研究すれば日蓮正宗教学の弱点が浮かび上がってしまう恐れさえある。 私が創価学会教学部の幹部ならそうする。 相変わらず極理の師伝や血脈相伝という単語が目に付く。 そもそも歴代の上人は本当に血脈が正しく伝わっているのか。 いつも私が不思議に思う稚児法主 小学校低学年の年齢の法主 の時代も正しい相伝が流れているのか。 創価学会は御隠尊日顕上人猊下の血脈が切れていると主張しているが文献を調べる限り血脈が途切れた場合の想定は大聖人にも日興上人にもなかったと思われる。 大御本尊が壊れたり焼失した場合も想定されていない。 万事曖昧なところから出発している事実はどうしようもない。 そもそも戒壇とは何だろう。 戒壇とは平安時代中期までの国立の僧侶養成所のことである。 比叡山延暦寺に設置された戒壇に倣って法華本門戒壇堂の建立を大聖人が後世に託されたものだ。 日達上人は昭和39年に正本堂を民衆立戒壇とすることを決定されたが僧侶が国家によって養成されなくなった現代では僧侶は100%私度僧であり戒壇の意義が薄れてしまった。 根本の戒壇論が宙に浮いてしまった格好なのだ。 日達上人が国立の戒壇をやめて民衆立戒壇とされた昭和39年以降の文献はこの本にほとんど登場しない。 つまり正本堂以降の戒壇論は止まったままなのだ。 大聖人の御遺文そのままに戒壇を建立しようとすれば日蓮正宗を国教化するしか方法がないのが事実。 創価学会は国教化を目指して政界に進出したが当初は全政党に人材を送り込んで国会の賛成多数で戒壇を建立する計画だったのが現在の日本国憲法で国教が禁じられていることなどを考慮して日達上人は国立の戒壇を民衆立に修正されたのだろう。 同時期に創価学会推薦議員たちは公明政治連盟から公明党の結党に動くことになる。 日蓮正宗を国教化するための政界進出は国民の福祉を目的とした政党に変化したわけだ。 このような経緯があることを御宗門はご存知のはず。 戒壇建立を論じた時に避けて通れない国教化の問題に目をつぶったままで戒壇の大御本尊を論じることはできないはずだが御宗門はこれを避け続けている。 この本を含めて御宗門発行の書籍には公明党を批判する文章が散見されるが戒壇論から出発した政治活動に関しての記述は発見できない。 御宗門には戒壇建立の具体的方策を考える能力がないのだろう。 或いは戒壇建立を目的として政界進出したことさえも国立戒壇をやめたことさえも理解不能なのかもしれない。 顕正会のようにダイレクトに国教化を打ち出すのも方法の一つかもしれないが冷静に検討すればするほど現在の主権在民の社会では国立の戒壇を建立することは不可能に近く意味の薄いことであると結論せざるを得ない。 つまり日達上人のご判断と創価学会の政治に対する方向転換は現実的な対応だったといえるのではないか。 戒壇は一宗にとって中心であり根本であろう。 この本にも登場する通り日興上人の弘安2年の大御本尊は永く伝えていくべき最重要の御本尊であることも間違いない。 しかし大聖人の御書には戒壇の大御本尊を皆が拝みに来なさいとする文は存在しない。 そもそも月例登山会を実施して定期的に大御本尊にお目通りをするようになったのは創価学会の戸田会長の就任後のことだ。 それまでは少人数の参拝者の希望で御開扉が御宝蔵でおこなわれていただけでわずかの期間を除いて本堂である御影堂に大御本尊が御安置されたこともない。 つまり大御本尊は本堂の御本尊ではなかったのだ。 さて 改めて創価学会が発表した教義条項改正を読んでみたが大御本尊を否定しているわけではなさそうだ。 根本としていたことをやめて日蓮大聖人の御真筆御本尊の一つとして扱うというのが基本的な姿勢のようだ。 おもしろいのは根本の本尊を定めていないことだろう。 創価学会本部常住の本尊を根本に定めてもいいのではないかと思うのだが敢て定めないのは書写すべき根本の本尊が必要ないからなのかもしれない。 破門されてからの池田の言動を辿っていくと宗教色を段々薄めていく彼の指向性が見えてくるようだ。 これは創価学会創始者の牧口会長が価値論や創価教育学という哲学・教育学を実践する団体として創価学会を創始した原点に回帰しているようにも見える。 御本尊を否定したわけではなく大聖人が定められた通りの内容で書き写されたすべての御本尊を同じように扱うというところに今回の教義条項改正の眼目がおかれているのではないかと思う。 このような目立つ動きをしたのだから創価学会は御宗門から噛みつかれるのは当たり前だが冷静に考えるほどに噛みつく理由も意味もあまりないことがわかってきて興味深い。 各寺院ではこの冊子の学習会をおこなって怪気炎をあげているが創価学会にとっては今さら大御本尊が根本でなくなったところで大した変化ではないのだろう。 彼らは既に20年も前にお目通り叶わぬ身になってしまっている。 お目通りできなくしたのは誰あろう日蓮正宗なのだからこういう動きは破門した当初からわかっていたはずだろう。 どうも創価学会の誹謗の影響か、宗外の外野は御法主上人の御権能を軽々しく考えて居ないか? 本文中、日主上人のお言葉で「大石寺は御本尊を以て遺状と成され候、是れ則ち別付嘱唯授一人の意なり。 大聖より本門戒壇の御本尊」と紹介されている。 つまり大御本尊を受け継ぎ、御所持される方が大聖人の御代理なのである。 ということは御法主上人の裁可により、他宗の下にある真筆の本尊が本宗に来たれば合法也、本宗の御本尊であっても邪宗に下れば違法也と正邪を決することは当然である。 「御法主上人が大聖人よりも上になってしまうではないか」等は愚かしい考えである。 御法主上人が現代の大聖人なのだ。 御代理なのだから。 それから、大御本尊のことが御書のどこに書いてある!?といきり立つ創価学会員がいるが、大御本尊は御真筆である。 そこに「本門戒壇」と書いてある。 二箇相承と合わせてこれ以上明確な証拠はないではないか。

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「創価学会」本部の住所は?本部の有名な施設は?

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「創価学会」の本部の有名な施設とは? ・広宣流布大誓堂 広宣流布とは法華経の教えを 広く宣(の)べて流布することです。 入場券を購入することで入館できます。 広宣ホール、大礼拝室があり、 広宣流布誓願勤行会などが執り行われる所です。 ・創価文化センター サンシャインホール、ピースフルラウンジ デジタル展示フロア、正義会館 特別展示、金舞会館などがあります。 創価学会の進行体験や活動の様子などが 映像で見ることができたり、 名誉会長である池田大作氏の 広宣流布の活動の記録などがあります。 ・接遇センター 接遇受付所として1985年に開館しました。 池田大作氏が命名した青年桜があり、 創価学会青年部のシンボルとなっています。 自動販売機やスタンプコーナーが 設置されていて休憩所にもなっています。 ・民音文化センター 音楽博物館が併設されており、 音楽資料が展示されています。 また、自動演奏楽器展示室、 古典ピアノ室があり、 オルゴールや自動人形、蓄音機の演奏を 楽しむことができます。 16世紀から20世紀の鍵盤楽器の 変遷を公開展示しています。 ・信濃平和会館 希望ラウンジ、友光会館が館内に設置されています。 館内は休憩スペースや 勤行・唱題会場となっていて 聖教新聞も無料で閲覧できます。 勤行会は一日に4回、 11時、12時半、15時、17時に 開催されています。 ・聖教新聞社 聖教新聞は創価学会の機関紙です。 戸田城聖氏、池田大作氏によって 1951年に創刊されました。 館内では聖教新聞の歴史や事業の記録、 家庭に配達されるまでの流れなどの 資料を閲覧できます。 その他、 姉妹雑誌などの資料も展示されています。 どうでしたか? テレビのニュースなどで聞いたことがある人も 思っていたより色々あるんだぁ。 とか思う人が多いのではないでしょうか? なにごとも自分で調べることは重要ですね。

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【トピックス】パラオ大統領が創価学会・総本部を訪問

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