怨霊 の 憑依。 怨霊(おんりょう)とは

怨霊の憑依(避難所)

怨霊 の 憑依

家系そのものが憑依されてしまう事も!狐憑きとは何か徹底解説 狐憑きとは、動物霊の一種である狐の霊に取り憑かれた状態の事です。 狐の霊というと、現世で亡くなった狐の霊を思い浮かべる所ですが、実は狐憑きの「狐」とは動物の狐の事ではありません。 その正体については諸説ありますが、代表的な物としては、神社で神様に仕える動物霊=眷属(けんぞく)の一種である狛狐(こまぎつね)が豹変し、悪霊と化してしまった説。 憎しみや悲しみと言った負の感情が融合し、悪霊になった説。 理不尽な理由で亡くなった人が悪霊に変化した説等が挙げられます。 中には現世で亡くなった動物霊が憑依して狐憑きになるケースもありますが、ここでいう「動物」は狐に限らず、犬や猫、蛇、蜘蛛など様々な動物を包括した物です。 このように狐憑きは、元を辿ると動物の狐とは必ずしも関係がないのですが、あえて「狐」と称されるのには古来より根付いている狐に対する信仰の厚さが背景にあります。 日本では「お稲荷様」と呼ばれる稲荷神を信仰する稲荷信仰や、巫者や行者が狐を使って託宣を行うと言った習慣があり、他の動物に比べて神秘的な存在として崇められてきました。 一方で畏れの対象でもある事から、動物霊の集合体は「狐霊」と定義される事が多いようです。 また狐憑きの症状は、他の霊障と比べてやや特殊である事から、霊障の症状を見て狐憑きと判断されるケースもあります。 家系憑きや病気とみなされるケースも…。 狐憑きになる4つの原因 狐憑きの原因は大きく分けて4つあります。 まず1つ目は、心身が弱っている所を低級霊につけ込まれるケースです。 動物霊は人の身近な所に存在する低級霊の一種で、成仏出来ない苦しみから、隙あらば人に取り憑いて助けを求めようとします。 強い意志を持っていれば憑依される事はありませんが、心身のバランスが乱れていたり、負のエネルギーが強い人と付き合ったりしていると、いわゆる「魔が差す」隙が出来てしまい、狐に憑かれやすくなります。 2つ目は、家系そのものが狐に憑かれているケースです。 日本の一部の農村では、憑き物は家系によって起こると信じられています。 そのような家系は「憑き物筋」と呼ばれ、憑き物を使役してよそからお金や財産を盗んで来させる事から、家系に富をもたらす存在とされています。 一方で憑き物を他人に憑依させる事もあり、災いの元として周囲から忌み嫌われる場合があるでしょう。 3つ目は不用意な行動を取った場合です。 例えば降霊術の一つである「コックリさん」を遊び半分でやったり、神社で失礼な行動を取ったりすると狐に憑かれる原因でしょう。 実際、心霊スポットで肝試しなどをする人は狐憑きになりやすいようです。 そして4つ目は狐憑きそのものが病気であるとする例です。 狐憑きの症状は脳の疾患などで錯乱状態になった場合とよく似ており、現代医学で狐憑きは、脳になんらかの異常が現れる事が原因とされています。 2011年には狐憑きの症状が見られた少女が医師の診断によって「抗NMDA受容体抗体脳炎」という疾患に罹っている事が明らかになったケースが報告されています。 ただ狐憑きになった全ての人に、疾患が見つかった訳ではありませんので、狐憑き=病気とする説にも疑問符が付いています。 感情的になる、顔付きが変わる…狐憑きに見舞われた時の4つの特徴と症状 霊に憑依された時の症状には個人差がある他、霊の種類によっても違いがあります。 では狐憑きに見舞われた場合、どんな症状が出るのでしょうか。 主な特徴をまとめました。 感情がコントール出来ず、ヒステリックになる 狐に憑かれると理性で感情をコントロールが難しくなり、些細な事で激昂したり、泣き叫んだりする奇行が見られるようになるでしょう。 場合によっては人に暴力を振るったり、物を破壊したりと周囲にまで影響が及ぶ為、公私ともに支障が出る恐れがあります。 身なりに無頓着になり、清潔感が失われる 一般的な人間であれば整理整頓された部屋を心地良く感じますが、狐に憑かれるとキレイな環境にむしろ違和感を覚えやすくなります。 その為、ほとんど掃除をせず、あっという間にゴミ屋敷のようになってしまう事もあるようです。 また自分の身なりにもまったく気を遣わなくなり、入浴しない、体臭を気にしない等の症状が見られるでしょう。 身なりや環境が汚れていると悪い気が滞りやすくなるため、放っておくと狐憑きの霊障がさらにひどくなっていきます。 目が吊り上がり、狐のような顔付きになる 狐に憑かれると、目尻がきゅっと吊り上がり、狐のお面のような顔付きになるでしょう。 ただ顔付きが変わるだけでなく、まるで人を値踏みするような目つきになる所も狐憑き特有の症状とされています。 憑依される前と比べるとかなり顔付きが変化するので、霊感や霊能力を持たない人が狐憑きを見分ける判断材料となるでしょう。 欲望を抑えられず、好き勝手に行動し始める 狐憑きに見舞われると理性が失われると説明しましたが、その影響で様々な欲望に対して抑えが効かなくなります。 欲望の対象は人によって異なりますが、とくに目立つのは大人の三大欲求と言われる「飲む」「打つ」「買う」の3つで、アルコール依存症になったり、ギャンブルに狂ったり、風俗にハマって散財したりするケースが多く見られます。 はじめの内は被害や損害を受けるのは自分のみですが、欲望がエスカレートすると酒乱になって身内に暴力を振るったり、ギャンブルで多額の負債を背負い込んで周囲に迷惑を掛けたり、恋人にひとりよがりな性的嗜好を押しつけて傷付けたりと周りにまで悪影響が及ぶ場合があります。 除霊の専門家に依頼するのが吉!狐憑きに遭った時の正しいお祓い方法3つ 狐憑きの症状が現れたら、悪化する前にお祓いを行い、きちんと除霊する事が大切です。 風邪などの疾患とは異なり、放っておいても快方に向かう事はありませんので、なるべく早めに対処しましょう。 狐憑きをお祓いする方法は大きく分けて3つあります。 お寺や神社でお祓いしてもらう お寺や神社では厄除けの為のお祓いを行っており、悪い物を落とす事が可能です。 お祓い自体は多くの寺社・神社で行っていますが、狐憑きを祓うなら狗神(いぬがみ)を祀っている所を選びましょう。 狐は狗に弱いため、よりお祓いの効果が高くなります。 ただ狗神神社の中には、お祓いを行っていない所もありますので、いきなり訪問せず、あらかじめお祓いの有無を確認するようにします。 専門家に除霊してもらう 世の中には強い霊感を持ち、他人に取り憑いた悪霊を、祓う力を備えている人達がいます。 とくに除霊を専門としている霊能力者に助けを求めれば、どんな霊がなぜ取り憑いているのかまで分かるので、狐憑きかどうか判断出来ない場合は除霊の専門家に依頼した方が安心です。 ただ霊能力者の中には、詐欺まがいの事を行っている悪徳な人間もいます。 騙されてしまうと金銭的な被害だけでなく、狐憑きの症状が悪化する恐れもありますので、信頼出来る霊能力者を選びましょう。 心療内科を受診する 現代医学では脳疾患や脳の異常によって狐憑きの症状が出ると認識されていますが、一方で精神疾患が原因とする説もあります。 適切な治療やカウンセリングを受ける事で狐憑きの症状が緩和する場合もありますので、一度信頼出来る心療内科を受診してみるのもよいでしょう。 もし霊障が原因だったとしても、心療内科の治療によって心の状態が安定すれば症状の悪化を食い止める事が出来ます。 その場合、神社や霊能力者に除霊について相談しつつ、引き続き心療内科に通って精神の安定を図るようにしましょう。 普段の行動や足を踏み入れる場所に要注意!狐憑きに遭わない為の対処方法6つ 動物霊は自然霊としてごく身近な所に存在するため、心身が弱っていると日常生活を送っているだけでも憑依される場合があります。 とくにある行動を取ったり、特定のスポットに足を踏み入れたりすると狐憑きに遭う可能性が高くなるので要注意です。 狐憑きの被害に遭わないためにはどうすればよいか、その対策方法を紹介します。 よくわからない稲荷神社への参拝は避ける 狐憑きの原因でも説明しましたが、狐霊は稲荷神社などに使役する眷属のなれの果てとする説もあります。 世間によく知られている有名な稲荷神社なら問題ありませんが、縁もゆかりもなく、世間的にも認知されていないような稲荷神社に行く時は要注意。 眷属のなれの果てである狐霊に憑かれてしまい、様々な奇行に走る原因となります。 こうした神社は意外と御利益があるので「パワースポットの穴場」として紹介されているケースも多いのですが、御利益がある分、見返りを求める狐霊に憑依されやすい傾向にあるので油断は禁物です。 神社で失礼な振る舞いをしないよう心掛ける 最近はSNSなどに投稿するため、神社で派手なパフォーマンスを行ったり、鳥居などに落書きやいたずら等を行ったりする人がいるようです。 神社で失礼な振る舞いをすると罰が当たるとよく言われますが、とくに稲荷神社では怒った狐霊に憑依され、霊障が起こる恐れがあります。 例え悪気はなくても、軽い気持ちで取った行動が原因で狐憑きに見舞われる可能性もゼロではありませんので、神社で失礼な言動を取らないよう配慮しましょう。 引っ越しする時は行き先の土地をよく調べる 引っ越しをする時、多くの人は治安や利便性などを重視しますが、引っ越し先の土地が元々どんな土地だったのか、その由来や経歴を調べる人は少数派です。 とくに新築の家は更地を購入して建てる方が多いですが、元々森林や空き家があった場合、そこに棲んでいた狐霊や動物霊が住処を追われて怒っている可能性があります。 そのまま新しい家に居着かれると住人に取り憑いて霊障を起こす事もありますので、引っ越す時は土地の由来もきちんと調べるようにしましょう。 なおアパートやマンションの場合、引っ越す前に敷地内をぐるりと一周して小さな祠などがないかどうか確かめる事も大切です。 位の低い狐霊が祀られている場合、その土地に住む人に憑依して悪影響を及ぼす事もあります。 もし土地の下見に来て嫌な感じを受けたら、霊能力者など専門家に見てもらう事をオススメします。 人の手が入っていない森林や裏山、古民家などに近づかない 自然のまま残っている森林や神社の裏山、古い民家などは動物霊が寄りつきやすい傾向にあります。 遊びや冒険半分で不用意に足を踏み入れると、無防備になった心の隙を突かれて狐に憑かれてしまう可能性があります。 とくに人の手が入っていない場所は霊的な存在の溜まり場になりやすいので、無闇に近づくのはやめましょう。 心霊スポットには近寄らない 世の中には心霊スポットと呼ばれる場所が沢山あり、近年は心霊ツアーと称してそれらのスポットを巡るイベント等も行われているようです。 中にはかなりの人気を誇る心霊スポットもあるようですが、そうした場所には動物霊が集まっている可能性大です。 とくに遊び半分で近付き、写真や動画を撮ったりして長時間過ごしていると、いつの間にか狐霊に憑かれてしまいます。 霊感のない人ほど霊的な存在には無頓着ですが、霊に対する抵抗力の低い人ほど狐憑きに遭う可能性が高くなるので、心霊スポットに近寄るのは絶対にやめましょう。 人の恨みを買う事はしない 動物霊は人の恨みや悲しみの集合体とも言われています。 誰かにいじわるをしたり、嫌がらせをしたりしていると、相手から恨みを買ってしまい、狐霊に憑かれてしまう恐れがあります。 もしいじめや嫌がらせを苦にして相手が自殺してしまった場合、狐憑きに見舞われる可能性はさらに高くなるので、他人の恨みを買うような言動は行わないようにしましょう。 まとめ 狐憑きは昔から伝わる霊障ですが、科学が発達した現代でもなお、狐憑きの症状に悩まされる人は後を絶ちません。 狐憑きに遭うと凶暴になったり、欲望に溺れたりして生活が壊れる原因になってしまうので、気になる症状が現れたらきちんとお祓いしてもらいましょう。 また日頃の言動には十分注意し、狐憑きに見舞われるリスクを減らすよう努めましょう。

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憑依

怨霊 の 憑依

何度も振り向きましたが、そこに人の気配は無く、いつもと同じ我が家の日常が存在するだけでした。 不安な気持のまま、自転車に乗り、私は家を出ました。 私の家から出て最初の通りに差し掛かったところで、遠くから腰の曲がった老婆が歩いてくるのが見えました。 しかし、歩いていると言うにはあまりに不自然な動きである事に気付いたのです。 足を動かしておらず、わずかながら体が宙に浮いているような感じでした。 起き抜けから不気味な感覚にとらわれていた私は、恐る恐るその老婆の方向へと自転車をこぎました。 近付くにつれ、老婆が発する禍禍しい霊気に体中が蝕まれるような感覚を覚えました。 明らかに霊体である事を認識した私は、自転車をこぐのをやめ、老婆に向かい合うような形となりました。 その距離およそ10m。 鼠色の乱れた髪の毛に隠れて見えなかった顔がゆっくりとこちらを向きました。 顔を見た瞬間の感覚はいまだに思い出すだけで背筋に緊張が走ります。 浅黒い肌。 痩せこけた頬に、落ちそうなくらいに張り出した瞳。 口を真一文字につぐみ、私を睨みつけてきます。 その瞳には凄まじい怒気を感じました。 私は老婆の眼光に体がすくみ動けなくなっていたのです。 それまでにも私は相当な数の霊体験をしており、霊をあまり『怖い』と感じなくなっていたのですが、その時ばかりは自分の霊能体質を呪いました。 悲哀、 怒り、 憎しみ。 そんなものが入り混じった老婆の霊気。 それまでの私が体験した事のない、凄まじい怨霊です。 老婆に動きが見えました。 両腕を前に伸ばし、首を締めるような格好をしています。 「危険だ。 」 そう思った時は遅かったのです。 真っ直ぐに私目掛けて老婆が向かってきます。 その速さたるや、成年男子が猛スピードで走るくらいの勢いで、私はかわす事もできずに棒立ちでした。 そして私の体を老婆が通り抜けて行ったのです。 しばらくは息もできず、その場に立ちすくんでいましたが、恐る恐る後ろを振り返ると、そこにはもう誰もいませんでした。 その日、一日。 私はとても嫌な気持で過ごしたのは言うまでもありません。 しかしそんな現象はあくまで前触れに過ぎなかったのです・・・・・。 老婆を目撃した日から一週間が過ぎました。 この一週間というもの、ろくに食事も喉を通らず、気分の優れない毎日を送っていました。 学校では学期末試験が始まっており、私も柄にも無く試験勉強をしなければならなかった為、両親が寝静まった頃を見計らい、応接間にやってきました。 一応、何故わざわざ応接間で勉強しなければならないのかを御説明致します。 元来、勉強嫌いの私は机に向かう事が大嫌いで、自室の勉強机にはコンポを乗せていた為、そこでは勉強が出来ない状態だったのです。 深夜一時頃。 静寂に満ちた部屋にこんな音が聞こえてきたのです。 『 ピチャ・・・ピチャ・・・ピチャ・・・』 それは雨漏りの様な水滴の音でした。 音の方向は応接間の隣に位置するトイレからです。 管が破れて水漏れでもしているのだろうか? 軽い気持でトイレに向かい扉を開くとそこには・・・・・。 私の眼前に薄汚い布キレ。 見上げるとあの老婆の顔が!! 天井から吊るさがった老婆は白目を剥き、口からはどす黒い血を流していました。 音は老婆の口から垂れた血の音だったのです。 私は絶叫しました。 腰が抜けたのでしょう。 その場にヘナヘナと座り込んでしまいました。 二階からは私の声に驚いた両親がおりてきました。 私は這いずりながら両親の元へ。 「どうしたんだ?」 父親の声に私は返事が出来ず振り返りトイレを指差しました。 しかしそこには既に老婆の姿は無く、トイレの扉だけが開いた状態。 私は必死に両親に説明しましたが「寝不足で夢でも見たんだろう。 」と、軽くあしらわれてしまいました。 応接間に戻り、とりあえず机に向かいました。 しかしどうにも落ち着きません。 そしてこの後、はかどる事の無い勉強をしていた私に第二の恐怖が襲いかかります。 私は背後に人の気配を感じました。 しかし先程の事もあるので後ろを向く気にはなりませんでした。 その時です。 私の首筋に冷たい感触が・・・・・。 前にあった戸棚のガラスにうつっているのは、私の首を締めている手。 私の背後にはまたもやあの老婆がいたのです。 老婆の手を引き剥がそうとしましたが、凄まじい力でまったくはなれません。 私は目を閉じ、無宗教くせに神頼みです。 御経を唱えました。 『南妙法蓮華経南妙法蓮華経南妙法蓮華経・・・・・・・』 すると老婆の力は緩み、かわりに私の耳元でこう囁きました。 『 熱い・・・熱くてかなわん。 なんとかせんか!誰の謀(はかりごと)じゃ! 許しはしまいぞ!井上の末代まで祟ってやるからそう覚悟せよ!』 二度ほど同じ言葉を繰り返し、フッと老婆の気配は消えました。 そんな状況で勉強など手につくはずもなく、私は眠る事にしました。 眠りながら考える。 「私はおかしくなってしまったんだろうか?」 真剣に悩みました。 気が狂っているのかもしれないと・・・・・。 そして老婆の言葉。 どんな意味が込められているのでしょう。 老婆の霊に悩まされる日々はまだ続いたのでした・・・・・。 私のノイローゼ気味の日々は続いていました。 以前にも増して、誰かに見られている感覚が強くなってきたのです。 一日一回は老婆が私の耳元で言ったあの言葉が聞こえてくる始末。 そしてついに老婆の姿が常に見えてしまう。 そんな状況まで追い込まれていったのでした。 食事もろくに喉を通らず、眠れない生活。 私は次第にやつれていき、あの老婆の様に頬が痩せこけたみすぼらしい顔になってしまいました。 見かねた両親が私にこう言いました。 「最近のおまえはおかしい。 でも我が子を精神病などと思いたくはない。 おまえが言う事を信じているわけではないが、一度、霊媒師にみてもらったほうが良いと思う。 」 そして私は母の弟の紹介で霊媒師の元へ行く事となったのです。 紹介してくれた叔父の車で霊媒師のもとへ向かいました。 着いた先はなんの変哲もない住宅街。 そしてただの一軒家でした。 出迎えた女性に案内され、家の中へ。 一室に通され、その場に座っていた女性こそ、誰あろう霊媒師の方だったのです。 年の頃は70代前半といったところでしょうか。 ふくよかな顔が優しい印象を覚えさせる老女でした。 「こちらにおかけなさい。 」 そう言うと彼女は私を自分の前に座らせました。 彼女は私の手を握り、こう言いました。 「あなたが来たのはすぐにわかりましたよ。 あなたはすごい霊能力を持っていらっしゃる。 でもね。 あなたは霊媒師になりたいわけじゃないんだものねぇ?だったら必要ないのにねぇ。 可哀想にねぇ。 」 矢継ぎ早に話していく老女。 そしておもむろにこう言ったのです。 「あなたには今、非常に厄介な霊が憑依している。 気味の悪いお婆さんだねぇ。 」 驚いた。 ただただ驚いた。 私はここに来てからまだ何も言ってないのです。 しかし老女の言っている事は寸分の狂いなく当たっているのです。 「あんたなんでこんな悪さをするのさ。 この子に何の関係があるんだい?」 優しい口調で話していますが、私に話しているのではなさそうです。 私は黙って老女の言葉に耳を傾けました。 「そうかいそうかい。 それは大変だったねぇ。 だけどこの子には関係ないだろ。 早いとこ成仏しなさい。 」 そう言った後、老女は私の肩に両の手を置き、なにやらお経のようなものを唱え始めました。 何度も何度も私の肩を強く叩き、老女は拝み続けます。 一時間ほど彼女と霊の攻防があったのでしょう。 深く溜息をついた老女はにっこり笑って私にこう言いました。 「もう大丈夫だよ。 あなたに憑いてた霊はいなくなったからね。 」 彼女にそう言われるまでもなく私の体がそれを理解していました。 憑き物が落ちるとはまさにこの事。 体が軽く感じ、食欲までもが出てきたのです。 老女はこう続けました。 「あなたについていた霊は40年以上前にあなたの家の周りに住んでいた地主さんだよ。 あなたの家の周りは昔、一つの土地で、彼女はそこの女地主。 ある時、資産目当てで彼女は親族に殺される羽目になったんだ。 死因は焼死さ。 彼女の自宅に火をつけたんだろうねぇ。 彼女は相当怒っていたよ。 『井上だけは許せない』と言っていたねぇ。 井上ってのは親族の方のようだね。 」 言葉が出なかった。 唖然とした。 私は老女に聞きました。 「なぜ僕に憑依したのでしょうか?」と。 彼女の答えは単純明快でした。 「それはあなたが霊に優しい人だからさ。 霊ってのは霊媒師のように霊の気持がわかる人間に憑こうとするのさ。 だから何の関係もないあなたに憑依して、恨みを晴らそうとしてたんじゃないのかねぇ。 」 その後、老女に霊の祓い方を教わり、私は帰路につきました。 次の日、私は母と近所の事について町内を聞いて回りました。 そこで驚くべき事実に直面したのです。 老女の言葉には寸分の間違いもなかったのです。 私の住んでいる場所は元々は一つの土地で、そこの所有者は『 井上』姓。 それ以前の所有者の事まではわかりませんでしたが、『 井上』が謀略により老女から土地を奪ったのでしょう。 それ以来、老婆の怨霊は私の前に姿を見せません。 が、(序章)にてお話した通り。 見てしまうんですよ。 この話しを聞いた人が・・・・・。 霊媒師の方が最後に言った言葉を付け加えておきます。 「 成仏させる事はできなかった。

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【霊の種類】地縛霊・浮遊霊・動物霊・生霊や怨霊、人に憑依する霊を解説

怨霊 の 憑依

憑依(ひょうい)とは、などが乗り移ること。 憑(つ)くこと。 憑霊 、 神降ろし、 神懸り、 神宿り、 憑き物ともいう。 とりつく霊の種類によっては、 悪魔憑き、 などと呼ぶ場合もある。 「憑依」という表現は、ドイツ語の Besessenheit や英語の spirit possession などの学術語をするために、ごろ、特に後から用いられるようになったと推定されている(下記「」を参照)。 ファース(Firth, R)によれば、「(における)憑依(憑霊)はの一形態であり、通常ある人物に外在する霊がかれの行動を支配している証拠」と位置づけられる。 (: ecstassy もしくは soul loss)や憑依(: possession)はにおける接触・交通の型である。 宗教学では「つきもの」を「ある種の霊力が憑依して人間の精神状態や運命に劇的な影響を与えるという信念」とする。 医学ではの一種とされる。 訳語の歴史 [ ] 、、などのとして用いられるようになった「憑依」あるいは「憑霊」という表現は、明らかにドイツ語の Besessenheit や英語の( spirit) possession などの翻訳語であり、欧米の学者らが使用する学術用語が日本の学界に輸入されたものである、とは指摘した。 1941年(昭和25年)のある学術文献 には「憑依」の語が登場した。 一般化したのは第二次世界大戦後だろうと推定される。 「憑依」という学術用語が用いられるようになって後は、この用語に関して、様々な理論化や類型化が行われてきた。 例えば、憑依という用語にとらわれすぎず、「つく」という言葉の幅広い含意も踏まえつつ憑霊現象をとらえなおしたの研究 などがある。 「憑依」という用語と分類の恣意性 [ ] ただし、学術的な研究が進むにつれて、当初は明確な輪郭をもっているように思われた「憑依」という概念が、実は何が「憑依」で何が「憑依」でないか線引き自体が困難な問題であり、評価する側の価値判断や政治的判断が色濃く反映され、バイアスがかかってしまっている、やっかいな概念である、ということが次第に認識されるようになってきた。 というのは、大和言葉の「つく」という言葉ならば、「今日はツイている」のように幸運などの良い意味で用いることができる。 ところが「憑依」は否定的な表現である。 英語の be obsessed や be possessed などは否定的な表現であり、「憑依」も否定的に用いられてしまっているのである。 現実に起きていることはほぼ類似の現象であっても、書き手の側の価値判断や政治的判断によってそれを呼ぶ表現が恣意的に選ばれてしまい、別の表現になってしまっているのであると指摘する研究者もいる。 例えば聖書には次のようなくだりがある。 イエスが向こう岸のガダラ人の地に着かれると、 悪霊に取りつかれた者がふたり、墓場から出てきてイエスのところにやって来た。 二人は非常に凶暴で(中略)、突然叫んだ。 「神の子、かまわないでくれ。 まだ時ではないのに、ここにきて、我々を苦しめるのか」。 はるか離れたところで多くの豚の群れがえさをあさっていた。 そこで悪霊たちはイエスに願って言った。 「もし我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」。 イエスが「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。 すると豚の群れは崖から海へなだれこみ、水の中で死んだ。 豚飼いたちは逃げ出し、町に行き、悪霊に 取りつかれた者のことなど一切を知らせた。 ( 8. 28-33) これなどは「取りつかれた」などの「憑依」を暗示する用語・訳語が選ばれ、そういう位置づけになっている。 一方、沖縄のと呼ばれる人がカミダーリィの時期を回想した体験談に次のようなものがある。 そして に歩かされて、夜中の3時になるといつもウタキまで歩かされて、そうすると、 天が開いたようにがさして、昔の(琉球王朝の)お役人のような立派な着物を着た おじいさんが降りて来られて「わたしの可愛いクァンマガ(子孫)」とお話をされる。 この体験談を聖書の引用と比較してみると、明らかにイエス自身の事跡を示したマタイによる福音書3. 16以下のくだりと酷似している。 まともに判断すれば、マタイによる福音書3. 16のくだりと同じ位置づけで研究されてもようさそうなはずのものなのだが、ところが学術の世界では「ユタと言えばカミダーリィ(神がかり)。 だからシャーマン。 すなわち、こうした表現や用語の選定段階には、聖書の編者たちやキリスト教徒たちのやが埋め込まれてしまっているのである。 学者らがこうしたキリスト教徒の「信仰」自体を批判する筋合いにはないが 、問題なのは、こうしたキリスト教信仰による分類法が、「学術研究」とされてきたものの中にまでも実は深く入り込み、研究領域が恣意的に分けられてしまうようなことが行われてきたことにある。 つまり、「ついた」「神がかった」などという表現があると「憑依」や「シャーマニズム」に分類して、宗教人類学や宗教民俗学の守備範囲だとし研究されたのに、「(イエス・キリストは)天が開け神の御霊が鳩のように自分の上に下ってくるのをご覧になった」という記述や「高僧に仏の示現があった」「見仏の体験を得た」という記述は、別扱いになってしまい、キリスト教研究や仏教研究の領域で行われる、ということが平然と行われてきてしまったのである。 古代ギリシャ [ ] 哲学 [ ] 『』などのの著作によれば、神が擬人化される以前から存在したという神性の存在が、神と人間のあいだを結合するために憑依という形で個人の人生に介入してくるという。 プラトンの師であるは頻繁に強度のトランス状態となり、人知を超えたなを授けられたという。 プラトンの弁によれば、ソクラテスは「ぼくはいわゆる人間の理知によって語っているではないのです。 むしろ、なにか神霊のような、自分ではないある高いものが、ぼくをつき動かしているのです」と語っている。 は、ソクラテスの話を聞くと誰もが強い衝撃を与えられ、神がかった状態に陥ったと述べている。 『』の中では「神に憑かれて得られる予言の力を用いて、まさに来ようとしている運命に備えるための、正しい道を教えた人たち」と、前4世紀当時のギリシャの憑依現象について紹介している。 『』では、憑依された人が口にする予言や詩の内容を、客観的な視点から理性を用いて的確に判断しする人が傍らに必要であることを述べている。 やなど、ソクラテスからに連なる哲学には、しばしば非人間的な超越存在が根底に現れる。 その起点には、人間の知性を越えたダイモーンの介入による神充状態を理想とし、自らの知や活動の源泉としたソクラテスの教えがある。 アブラハムの宗教 [ ] であるももにも、が登場する。 これは神が宿ったものともいえる(、、) [ ]。 () について、者のが、、、、をクロスオーバーさせつつ分析している。 の神学では、夢遊病的なもの( the somnambulic)の型のつきものに possession の名を与え、正気のもの( the lucid)の型のつきものに obsession の名を与えている。 日本 [ ] 神道・古神道 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2011年2月) も、にされる神事であり、はそのときの「戦いの神」の宿る御霊代である。 昔の巫女は1週間程度をとりながらを行うことで、自分に憑いた霊を祓い浄める「サバキ」の行をおこなうこともあった。 沖縄 [ ] 沖縄では「ターリ」あるいは「フリ」「カカイ」などと呼ばれる憑依現象は、その一部が「聖なる狂気」として人々から神聖視された。 そのおかげで憑依者は、治療される対象として病院に隔離・監禁すべきとする近代西洋的思考に絡め取られることは免れた 、ともされる。 沖縄の本土復帰以降には、同地に精神病院が設立されたものの、同じころ(西洋的思考の)精神医学でも「」なども、人間の示す積極的な営為の一つであるというように肯定的な見方もなされるようになったおかげで、沖縄は憑依(の一部)を肯定する社会、として現在まで存続している ともされている。 日本語における憑依の別名 [ ]• 神宿り - の状態の神霊が宿っている時に使われる。 神降ろし - 神を宿すための儀式をさす場合が多い。 「神降ろしを行って神を宿した」などと使われる。 降ろす神によって、夷下ろし、稲荷下ろしと称される。 のヒシギと呼ばれる甲高い音は「神降ろしの音」と呼ばれ、神道の儀式で神降ろしに使われた岩笛から発達したさとれる。 新潟県のでは、笛は神降ろしの笛と言われて演奏者は尊重され、吹き手以外笛に触れない• 神懸り - 主に「人」に対し、和御魂の状態の神霊が宿った時に使われる。 憑き物 - 人やや器物(道具)に、の状態の神霊や、位の低い神であるや九十九神ややが宿った時や、といわれるやがこれらのものに宿った時など、相対的に良くない状態の神霊の憑依をさす。 ヨリマシ -尸童と書かれる。 祭礼に関する語で、など神霊を降ろし託宣を垂れる資格のある少年少女がそう称された。 尚柳田國男は『先祖の話』中で憑依に「ヨリマシ」のふりがなを当てている。 民俗学における憑依観 [ ] 民俗学者のは、憑き物がファースの定義による「個人が忘我状態になる」状態を伴わないことや、社会学者I・M・ルイスの「憑依された者に意識がある場合もある」という指摘以外も含まれることから、憑依を、という観念からなるやにおいて、によるへの過剰な付着を指すとした。 そのため、「ゲームの最中に回ってくる幸運を指すツキ」の範疇まで含まれると定義する。 さらに、そのような観点から鑑みるに、日本のいわゆるは「 possession ではなく、過剰さを表す印である stigma」であるとする。 また、は、「」が「スイカツラ」や「」など、蛇を連想させる植物でも言われることから、「蛇信仰の名残」とし、「狐が憑いた」という説明を「後に説明しなおされたもの」と解説している。 神秘主義における憑依観 [ ] この節の出典は、 に合致していないおそれがあります。 そのガイドラインに合致しているか確認し、必要であれば改善して下さい。 ( 2011年2月) 職業霊媒のように、人間が意図的に霊を乗り移らせる場合もある。 だが、霊が一方的に人間に憑くものも多く、しかも本人がそれに気がつかない場合が多い。 とりつくのは、本人やその家族に恨みなどを持つ人の霊や、動物霊などとされる。 何らかのメッセージを伝えるために憑くとされている場合もあり、あるいは本人の人格を抑えて霊の人格のほうが前面に出て別人になったり、動物霊が憑依した場合は行動や容貌がその動物に似てくる場合もある。 こうした憑依霊が様々な害悪を起こすと考えられる場合は、それは霊障と呼ばれている。 ピクネットによる説明 [ ] 超常現象専門の研究者であるピクネットは、種々の文献や、証言を調査して以下のように紹介している。 歴史 憑依は太古の昔から現代まで、また洋の東西を問わず見られる。 すでに人類の歴史の初期段階から、に入り、有意義な情報を得ることができるらしい人がわずかながらいることほ知られていた。 部族社会が出現しはじめた頃、憑依状態になった人たちはいつもとは違う声で発語し、周囲の人々は霊が一時的に乗り移った気配を感じていたようである。 初期文明では憑依は「神の介入」と見なされていたが、古代ギリシャのは「憑依は、他の身体的疾患と同様、神の行為ではない」と異議を唱えている。 西洋のキリスト教では、憑依に対する見解は時代とともに変化が見られ、聖霊がとりつくことが好意的に評価されたり、中世には魔法使いや異端と見なされ迫害されたり、近代でも悪魔祓いの対象とされたりした。 現在でも憑依についての解釈は宗派によって、見解の相違が存在する。 例えばは『ギルバート・ピンフォードの苦行』という本を書いたが、これは小説の形で提示されてはいるものの、ウォー自身は、これは自分に実際に起きたこと、とテレビで述べている(ただしこの事例では、酒と治療薬の組み合わせが原因とも言われている)。 最近では「良い憑依」というのを信じる人々もいる。 肉体を備えていない霊が、肉体の「主人」の許可を得てウォークイン状態で入り込み、祝福のうちに主人にとってかわることもあり得る、と信じる人たちがいる。 古代イスラエル ()にも憑依の記述は存在する。 では、その状態はに乗っ取られた状態であり、乗っ取る霊は悪い霊のこともあり、の代理として登場する記述がある。 キリスト教 初期のキリスト教徒は憑依を次のように好意的に見なしている。 「において、病気の治癒、、その他のを約束して下さったが憑くような現象は、きわめて望ましい。 」 その一方で、憑依に関連する能力として「霊の見分け」(つまり悪霊を見破る能力)が認められていた。 時代が下ると憑依を悪霊のしわざとする考え方が一般的になり、憑依状態の人が語る内容がキリスト教の正統教義に一致しない場合は目の敵にされ、そこまでいかない場合でも、憑依はの対象とされている。 憑依状態になる人が、、あるいはとしてされる事例が多くなっていった。 ピクネットは、憑依の歴史的記録で、証拠文献が豊富な例として、1630年代のフランスのルーダンで起きた「尼僧集団憑依」事件をとりあげている。 この事件では、尼僧たちのを行うために修道士シュランが派遣されたのだが、そのシュラン自身も憑依されてしまった。 尼僧ジャンヌも修道士シュランも、後に口を揃えてこう言った。 「卑猥な言葉や神をあざける言葉を口にしながら、それを眺め耳を傾けているもうひとりの自分がいた。 しかも口から出る言葉を止めることができない。 奇怪な体験だった。 」 A. エステルライヒが1921年の著書『憑依』で示した、憑依の中には、悪魔が発語するような語り口、性格が異なる悪霊が五つも六つも詰めかけているような様子、乗り移られるたびに別人になったかのように見えるものも含まれていた。 教徒の中の実践的な人々の間では、「憑依は悪魔のしわざ」説は次第に説得力を失ったが、は今でもを専門とする牧師団は存在している。 医学領域や心理学の領域で、憑依をあるいはの表れとみなす考え方は多い。 「『自分』というのは単一ではない。 複数の自分の寄せ集めで普段はそれが一致して動いている。 あるいは、日々の管理を筆頭格のそれに委ねている。 」これに対しては、この説明の例では、行為について当てはまらない、霊媒行為の場合、「筆頭格」のそれは、明らかに何か異なる実在のように見えることが多く、また霊媒はトランス状態になると、その人が通常の状態ならば絶対に知っているはずのない情報を提供していると主張する。 文学に描かれた憑依 [ ]• 「アクセス」 - の小説• 「」 - の小説 脚注 [ ]• 『広辞苑』第四版、第五版• 『広辞苑』第四版、第五版• 157-194。。 159• 秋葉降『朝鮮巫俗の現地研究』• 159• 『憑霊信仰論』伝統と現代社、1982年• 川村邦光『憑依の視座』青弓社、1997年• 167• 136-148. 山崎ランサム和彦『平和の神の勝利』プレイズ出版 p. 『聖書語句大辞典』• が『ルーダンの悪魔』 - The Devils of Loudun 1952 を書き、これを原作に監督が『肉体の悪魔』(1971)として映画化。 同じ事件は『尼僧ヨアンナ』()などにも描かれていて、が同名の映画化(1961)。 ミシェル・ド・セルトー『ルーダンの憑依』みすず書房 2008。 PARIS, JULLIARD, 1970. 塩月亮子、2006「」(宗教研究、第六十四回学術大会紀要• 塩月亮子 同上• 定本柳田國男集9巻 247頁• 洗足学園音楽大学伝統音楽デジタルライブラリー• 新潟県リコーダー教育研究会• 定本柳田國男集10巻 137頁• 小松和彦『憑霊信仰論』30頁 伝統と現代社 1982年• 『魔の系譜』『谷川健一著作集1』三一書房。 29頁 書中で引用される石塚尊俊の『日本の憑き物』ではの一種として吸葛 スヒカツラ が出る。 220-222。。 参考文献 [ ]• 池上良正『死者の救済史 : 供養と憑依の宗教学』〈角川選書〉、2003年。 リン・ピクネット『超常現象の事典』訳、、1994年。 『超常現象大事典 : 永久保存版』、2001年、76頁。 花渕馨也『精霊の子供 : コモロ諸島における憑依の民族誌』春風社、2005年。 関連項目 [ ]• - 神降ろしによる神や霊魂の啓示や予言• - で有名。 を研究した。 外部リンク [ ]• 岡田靖雄、『日本医史学雑誌』44号、1998-09• 酒井貴広、『早稲田大学大学院文学研究科紀要』 59 4 123-140 2014年2月• 大宮司信、『北方圏学術情報センター年報』6号、2014• 石井美保、京都大学人文科学研究所人文学国際研究センター『コンタクト・ゾーン』2007-03-31•

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