ライフ オブ パイ。 「浮島の解釈、そして光るもの」ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日

映画『ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日』ネタバレ感想

ライフ オブ パイ

制作費は1億2000万ドル。 1億円 が監督し、が脚本を執筆し、が主人公のパイを演じる。 で11部門ノミネートし、監督賞、作曲賞、撮影賞、視覚効果賞の最多4部門を受賞した。 あらすじ 小説家がインド人の青年パイ・パテルが語る幼少時代を聴きに訪れる。 ママジから「話を聞けば神を信じる」と聞いてやって来たのだという。 パイはプールが大好きな父の親友ママジ(「おじ」の意味)からパリの「世界一美しいプール」ピシン・モリトーと名づけられるが、「プール」の意味のピシンがpissing(おしっこ)と同じ発音でからかわれるようになる。 これを避けるために自らニックネームはのパイですと最初の授業で話す。 数学の授業ではを延々と暗記するほど賢くアピールする。 泳ぎや楽器も得意な少年パイだが、宗教の入り交じった南仏ののような街で育ち、とととを同時に信奉するようになる。 身分が低い夫と結婚して勘当された植物学者でもある母と父はを営んでいたが、さらにも経営してなど多くの動物を飼っていた。 トラとは接するなという父の教えに背いて強く叱責される。 その教訓の日から甘い幻想が消えた。 パイの一家は補助金がなくなったなどからの理由で動物園を畳み、新天地を求めて動物とともにに移住を決断。 ダンス教室で出会った恋人アナンディとも別れることになる。 しかし、乗船した日本のでは母親がだというのに肉汁ライスを出すコック、そして「肉汁は本当は肉の汁ではない」などと余計な口をきく仏教徒の船員に悩まされる。 さらに太平洋のを北上中に海難事故に遭い、船の沈没とともに全員を失い、16歳の少年パイが人間では唯一の生存者となる。 彼はで、、、トラのリチャード・パーカー(人と間違って付けられた名前だった)と過ごすことになる。 脚を骨折しているシマウマを襲うハイエナ、それに怒ってハイエナを襲うが逆に倒されるオランウータン。 ハイエナはベンガルトラに倒され、トラとパイ少年とで広大な海をさまようことになる。 「大海で生き残るために」というボートに必ず搭載してある遭難マニュアルを読んでボートにあった道具で筏をつくり、備え付けの水や食料を少しずつ使っていくが、クジラのために多くを失う。 お腹が空いたリチャード・パーカーが魚を採りに降りてボートに上れなくなるが、殺そうと思ったものの、殺せず、一緒の航海が続く。 徐々にリチャード・パーカーとはコミュニケーションが取れるようになるが、容易ではない。 の飛来や激しい嵐など多くの偶然が重なるが、を出したにもかかわらず近くを航行する船に気づいてもらえず、絶望から死の直前にまで追いやられる。 ボートと筏とでたどりついた島はの形をした楽園であり、水を飲み肉を食べ、いっときの安らぎを得る。 みんな同じような動作をするが群生している島であったが、夜になると水が酸性に変り動物を溶かしてしまう恐ろしい人食いの島だった。 早々にリチャード・パーカーとともに島を逃げ出し再び海をさまよってメキシコの海岸にたどり着くとトラは振り返りもせずにジャングルへと立ち去ってしまい、少年パイは寂しく感じる。 パイは家族など多くを失ったが、「結局生きることは手放すことだ。 一番切ないのは別れを言えずに終わることだ」とリチャード・パーカーを「永遠に忘れない」という。 地元の人間に救助され入院した少年のもとに日本の保険調査員が2人、沈没の原因を尋ねにやってくる。 トラとの漂流の物語を信じない彼らは「誰もが信じられる真実の話」を要求する。 すると、助かったのはコックと仏教徒の船員、パイの母、そしてパイだったという。 船員は脚にケガを負っており、食糧があるのにネズミを食べるコックは「船員の脚を切らないと体が腐って死んでしまう」といい、パイと母親は痛がる船員を押さえて、コックが脚を切った。 船員は助からずに死に、コックはその脚を魚のエサにした。 母が怒ったら脚を食べて、大喧嘩になり、パイにイカダに乗り移るように言ったが、母はコックに刺されて海に落とされ、サメに食われた。 怒りに燃えたパイはコックを殺し、たった一人で漂流することとなったという。 「母を先に乗せればよかった」と悔やむ。 この話を聞いた小説家はトラ=パイ、ハイエナ=コック、オランウータン=母、シマウマ=船員だと指摘すると、どちらの話でもいいとパイは答える。 家族が帰ってきたので、小説家が「ハッピーエンドだ」というと、「そちら次第さ、君の物語だからね」と答える。 調査書に目をやると「パテル氏の勇気と忍耐の物語は海上遭難史上類を見ない。 これほど長い漂流の末に生還。 しかもベンガルトラと共に成し遂げた」と書かれてあった。 パイ・パテル - ()• パイ・パテル(成人) - ( )• パイ・パテル(11~12歳) - アーユッシュ・タンドン()• パイ・パテル(5歳) - ゴータム・ベルール• サントッシュ・パテル(パイの父) - ()• ジータ・パテル(パイの母) - ()• ラヴィ・パテル(パイの兄、7歳) - アヤン・カーン• ラヴィ・パテル(パイの兄、13~14歳) - モハマド・アッバス・カリーリ• ラヴィ・パテル(パイの兄、18~19歳) - ヴィビシュ・シヴァクマール• アナンディ(パイの恋人) - シュラヴァンティ・サイナット• カナダ人小説家 - ()• 貨物船コック - ()• 仏教徒の船員 -• 教会司祭 - アンドレア・ディ・ステファノ• ママジ(パイの父親の親友) - エリー・アルーフ• 保険調査員(上司) -• 保険調査員(部下) - ジュン・ナイトウ 製作 が監督し、が脚本を執筆した。 脚本はの2001年の小説『』を原作としている。 リーに決定する以前に多数の監督や脚本家に声がかかっていた。 フォックス2000ピクチャーズ重役のエリザベス・ゲイブラーは2003年2月に『パイの物語』の映画化権を購入し、ディーン・ジョーガリスが脚本執筆のために雇われた。 10月、フォックス2000はを監督とすることを発表した。 シャマランは特に小説の主人公が自分と同郷の出身であることに魅了された。 シャマランは『』の作業を終えた後に本作に取り組むつもりであり、また、ジョーガリスに代わって脚本家も兼任し、新たな脚本を執筆した。 だが最終的にシャマランは『ヴィレッジ』の後に『』を監督する道を選び、フォックス2000は別の監督を探し始めた。 2005年3月、新監督としてとの協議が始まった。 キュアロンが『』の監督に決定すると、フォックス2000は2005年10月にを雇った。 ジュネはギョーム・ローランと共に脚本を執筆し、2006年中頃にインドで撮影を始める予定であった。 ジュネは最終的にプロジェクトから外れ、2009年2月にアン・リーが雇われた。 2010年5月、リーとプロデューサーのギル・ネッターは製作費に7000万ドルを要求し、スタジオが尻込みをしたためにプロジェクトが短期間保留された。 サバイバル技術のコンサルタントとして、実際に漂流経験がある(『』の著者)が起用されている。 脚本執筆にはデヴイッド・マギーが雇われ、リーは数ヶ月にわたってパイ役の俳優を探した。 3000人に及ぶオーディションを行った結果、2010年10月にリーはパイ役に17歳学生で新人俳優のスラジュ・シャルマを選んだ。 スラジュは泳げなかったが、とインドの伝統音楽を習得していたことと、その純粋で素朴な表情が気に入られた。 ガールフレンド役も新人で、実際にインド伝統舞踏の学校に通う生徒である。 撮影は2011年1月より、、で開始された。 2012年9月、リーは国際色豊かなキャストにするという理由からの出演箇所をカットした。 マグワイアが演じたヤン・マーテルはに代わり、再撮影が行われた。 ロケ地 主に台湾とインドで撮影された。 ・の動物園• 海洋でのシーンは台中市の古い飛行場に、各種の波を再現できる装置を備えた超大型(長さ70m、幅30m、深さ4m)の撮影用タンクを設置して撮影し、CGで空や水の動きを合成した。 同県はアンの故郷でもあり、公園内に手つかずの林が残されていることを聞き付け、撮影に採用。 インド・()。 元フランス領で、美しい教会が数多くあることで知られている。 撮影されたのは主人公が通う学校のシーンである。 ・ CG• 同社が手掛けたを見て、リー監督が発注したもの。 受賞が決まった翌月に本作の制作費の6分の1に満たない金額で売却され、事業縮小と経営母体の変更を経て現在に至る。 公開 北米では2012年11月21日に3Dと2Dの両方で公開。 元々は2012年12月14日を予定していたが、『』が同日であったために1ヶ月前倒しされた。 興行収入 北米で11月21日水曜日に公開され、25日日曜日までの5日間で3057万ドル、23日~25日の週末3日間で2245万ドルの興行収入を記録し、初登場は5位であった。 その後も4週連続で5位をキープするなど、順調に収益を伸ばし続け、最終的に1億2489万ドルの興行収入を記録。 日本での公開は2013年1月25日金曜日。 26日~27日の週末2日間で、動員21万9536人、興収3億2979万5700円を記録。 最終的には19億円を超えるヒットとなった。 北米、日本以外の全世界でも同様に大ヒットを記録し、トータル興行成績は6億892万ドルを記録している。 第85回アカデミー賞にて『』の12部門に次いで多い11部門にノミネート。 そして全ノミネート作品の中で最多となる4部門(監督賞、作曲賞、撮影賞、視覚効果賞)を受賞する。 米ローリング・ストーン誌「2012年のベスト映画11」 第7位。 アメリカ映画協会「2012年の映画トップ10」選出(順不同)。 米タイム誌「2012年の映画トップ10」 第3位。 2012年AFIアワードベスト10選出。 ソフト化 日本では、20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパンよりBlu-ray Disc BD およびDVDが発売されている。 ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日(2D版 BD) Disc 2. ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日(DVD)• ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日(3D版 BD) Disc 2. ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日(2D版 BD) Disc 3. ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日(DVD) Disc 4. ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日 特典ディスク(DVD)• ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日 (DVD、2013年6月5日発売 FXBA-52617) Disc 1. ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日(DVD)• ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日 (BD、2013年11月22日 FXXJC-52617) Disc 1. ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日(2D版 BD)• ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日 3D・2Dブルーレイセット (2枚組BD、2013年11月22日発売 FXXKA-52617) Disc 1. ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日(3D版 BD) Disc 2. ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日(2D版 BD)• ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日 (DVD低価格版、2013年11月22日 FXBNG-52617) Disc 1. ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日(DVD)• 2013年1月5日閲覧。 2013年1月5日閲覧。 Smith, Ian Hayden 2012. International Film Guide 2012. 143. ComingSoon. net. 2011年6月2日閲覧。 2013年1月7日閲覧。 Brodesser, Claude; McNary 2003-10-08. Brodesser, Claude 2005-03-31. Fleming, Michael 2005-10-23. Fleming, Michael 2009-02-17. McClintock, Pamela 2010-10-25. George Wales 2012年9月6日. ' '. 2012年9月6日閲覧。 McClintock, Pamela 2011-06-01.

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映画『ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日』ネタバレ感想

ライフ オブ パイ

それらのいくつかを解説していきたいと思います。 ネタバレが嫌な方は映画を観てから読んで下さいね。 そして下記に掲載しているものは、大竹ママの勝手な解釈を語るものですので、 必ずしも正解とは限りません。 特に この映画は、人それぞれに自分の解釈があってよい物語だと思います。 その点をご了承の上、お読み下さい。 14・・・)なのは、考え始めるときりのない 物語という意味も込められているのかもしれませんね。 但し、この副題「トラと漂流した227日」は、日本でのみ付いているようです。 パイが教会を訪れるシーンでパイが聖水を飲んだり、牧師さんがパイに水をあげるシーンって必要? パイは教会の入口の聖水を手ですくって飲んでいたので、牧師さんはパイを見つけ、コップの水を差し出し、こう言いました。 You must be Thirsty. のどがすごく渇いているんだね。 画像: しかし、トラのリチャードパーカーの元々の名前は「Thirsty」(サースティ)でした。 小川で水を飲んでいるところをハンターに捕まったからです。 ハンターの名前は「リチャード・パーカー」でした。 そのトラが、パイの動物園に売られる際に、名前を取り間違えて、 トラの名前が「サースティ」ではなく「リチャードパーカー」になったと大人になったパイは小説家に話をしています。 ですから You must be Thirsty. は、「のどがすごく渇いているんだね。 」ではなく 「きみはサースティであるに違いありません。 」 と訳すこともできます。 サースティ=トラであることから 「きみは、トラであるに違いありません」 パイ=トラ つまり「パイには隠れた凶暴性がある」と暗示されているようです。 トラは水を飲んでハンターに見つかり、パイも聖水を飲んで牧師さんに見つかったという設定も比喩を感じますね。 浮島が人の形に見える? 浮島は、ヒンドゥー教の男の神様ヴィシュヌを表現しているようです。 パイが教会でキリストの事を知り、キリストが好きになったというその夜、パイは寝る前に、 部屋にあるヴィシュヌの像に手を置き、「ありがとうビィシュヌ、キリストに会わせてくれて」 と言っているシーンがあります。 このヴィシュヌ像は、後に出てくる浮島にそっくりです。 像の周りのツタの感じとか、まさに浮島。 ・・・これから起こることを暗示していたのですね。 画像: ビィシュヌの像と、後に出てくる浮島の全景風景を並べてみました。 そっくりですよね。 (PR パイの彼女が踊りの最後に見せたという蓮の花の振り付けの意味は? パイは踊りの授業の後、彼女をつけて、見つかり、そして聞きます。 「森に隠れてる蓮の花?何故蓮の花が森に隠れているの?」 画像: パイは、長い漂流生活で、衰弱し死にそうになった時、 たどり着いた浮島の森の中で、蓮のような花を見つけます。 この先起こることを、ここでも暗示していたのですね。 バナナは浮くか? 我が家のお風呂の浴槽を使ってバナナは浮くか?の実験しました。 画像: 映画の前半で登場するパイのお兄さんもRaviという名前でした。 リチャードパーカーの名前の意味は? 「リチャードパーカー」という名前の人で、漂流生活で仲間に食べられてしまったという悲しい人がいます。 foxmovies. html 画像: 「リチャードパーカー」という名前は、エドガー・アラン・ポーが1837年に発表した 「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」に登場する人物の名前と同じです。 漂流中に食糧に尽きた4人の男性が「いけにえ」となる一人をクジで選ぶという物語で 仲間に食べられた哀れな船員がリチャードパーカーという人物でした。 そして、そのポーの小説発表から47年後に、本当に同じような事件が、実際に起こったのです。 その事件は「ミニョネット号事件」と呼ばれています。 漂流20日目で衰弱した最年少の17歳の船員が他の3人に・・・ その少年の名前が本当に「リチャードパーカー」だったのです。 偶然すぎる一致です。 エドガー・アラン・ポーは、この事を予知していたんでしょうか?ちょっと怖いですよね。 しかし、ライフオブパイでは、反対に食べる側として「リチャードパーカー」が登場しています。 この映画は過酷な現状を生きた、本当にいたリチャード・パーカーへの追悼の意味をもっているようで 哀悼のファンタジーとして作られたものなのかもしれません。 アン・リー監督がこの映画を作った理由は? の特典映像で、監督はこう話しています。 「 誰もがパイと同様に物語によって人生に意味を持たせている。 私もそうだよ。 本作を見た後、説明不能な何かについて考え、その延長として神の存在を意識して欲しい。 本作が神や宗教について深く考えるきっかけになれば、映画の作り手として最高に幸せだ。 物語は人に伝えてこそ意味があるからね。 」と語っています。 映像も音楽もストーリーもアカデミーショーにノミネートされるだけあって良かったです。 大人の方に、おすすめします。 しかし、 これから、お子さんと一緒に見に行こうかな?なんて思っている方には「注意が必要」と言いたいです。 私は、そういう映画だとは思わなかったので、連れて行きましたが・・・ 幸い、子供は「トラとの漂流冒険映画」と認識したようで、よかったです。 童話は実は怖い話って聞いたことありませんか? 映画レビュー完全ネタバレ紹介バージョンはこちら この私の感想を読んでコメントくださった「にしやん」さんという方は 「 トラは神からの賜物、禁忌を乗り越える力の象徴」と解釈しましたとコメント頂きました。 まさにその通りの映画だと、私も思いました。 ところで、Yahoo! 映画レビューにも「ライフオブパイの感想」を大竹ママは投稿しています。 Yahoo! 映画レビュー文末に 「このレビューは役に立ちましたか?」「はい」をクリックして頂けると励みになり嬉しいです。 (どなたが、クリックしたかは、私に報告されません。 人数だけわかります。 ) 大竹ママのYahoo! 映画レビュー それから、大竹ママは、ライフオブパイの物語と映像に魅せられて一番高いコレクターズエディションを購入しました。 こちらに商品の詳細内容を記載しています。

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3分で映画『ライフ・オブ・パイ』を語れるようになるネタバレあらすじ

ライフ オブ パイ

好ましかった話はトラ(リチャード・パーカー)が登場するほう。 以下にもうひとつの話、すなわちパイが逆上のあまり母親を殺害したコックを殺したというストーリーのほうで考えた内容について、ネタバレ多々で記します。 長いので根気のある方以外にはあまりお奨めはいたしません。 では…… もう一つの話は倫理的に非常に重たかったが、内容自体は単純な事実の連なりに還元できると思えた。 ただ、浮島の意味するところがさっぱり見当がつかなかった。 このもう一つの話において、この浮島はいったい何の比喩だったのだろう。 その解釈が思いつかず、ボゥ〜っと考えていた。 はじめは浮島の実の形から蓮(ハス)の花を連想したので、仏教に関係があるのだろうと思い、仏教による解釈を試みた。 パイの命をつないだ昼間の真水のプールは、夜には強烈に死を暗示する。 種があるはずの実の中心に歯があった植物は、諸行無常とも、生者必滅とも、あるいは輪廻転生ともとれる。 つまりこの島全体が、死をも含む生命の実相を表しているのだと考えられ、その解釈は一応仏教の解釈にも馴染んでいるように思えた。 だがしっくり来なかった。 なぜならこの映画における仏教の扱いはとても軽いからだ。 船内での食堂のシーンで、若い青年が提案した食事に関する見解は、結局パイの家族には受け容れられず却下されている。 それにこの浮島が仏教の教えで解釈されるものならば、序盤において仏教は重要なモチーフのひとつとして登場していなければならない。 しかしそのような構成ではない。 それではこの島のシーケンスに至って、ようやくはじめて仏教が詳細に述べられたのだろうか。 だが初めて脚光を浴びる仏教が、このようなおぞましさ、後味の悪さを残すような描かれ方で終わってよいものだろうか。 そうではあるまい。 少なくともこの原作者には特定の宗教を誹謗する姿勢は感じられない。 おまけに劇中でのパイは仏教徒でもない。 したがってこの浮島のパートは仏教をモチーフとしたものではあるまい。 この島のシーンを観た直後は、なまなましい感覚が残って少々不快だったのだが、この島がパイと彼の分身であるトラの命を繋いだことを考えると、この島が単純に禍々しさの象徴としてとらえるべきものでないことは確かだ。 浮島の全景は仰向けに寝ている人の姿であり、なおかつぼんやりと光っており、その絵柄からすればやはり神性を帯びたものととらえるべきだと感じた。 仏教以外でこの映画において神性を感じさせるもの。 それはなんだろう。 パイが信仰していたのはヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教だ。 これらの宗教は、本来の仏教、つまり釈迦がその生存時に直接説いた仏教とは異なり、すべて神を必要とする宗教だ。 そして嵐の時に祈りを捧げていたのは、ヒンドゥーのヴィシュヌ神だ。 ヒンドゥー以外ではどうか。 イエスなら、その亡骸は通常十字架の上か、マリアの膝の上であろうし、この島の不気味さとは相いれない。 イスラム教ではその教義から言って具体的な姿が映像として表現されることなど到底あり得ない。 では浮島をヴィシュヌとみなした場合、なにか不都合な点はあるだろうか。 こういうときにウィキペディアは便利だ。 調べてみると、 (1)ヴィシュヌの臍(ヘソ)から伸びた蓮の花からブラフマーが生まれる (2)ヴィシュヌから生まれたブラフマーが宇宙を創生し、それをヴィシュヌが維持・管理する (3)ヴィシュヌには多くの化身(アヴァターラと呼ばれ、「アバター」の語源とのこと)がある などの記載があった。 蓮に類似した植物の実の中に歯が入っており、映画にはヴィシュヌと共通のモチーフが使われていると言えよう。 またヴィシュヌの役割が宇宙、つまりこの世界の維持であるのなら、生と死、つまり生命の実相にも当然ヴィシュヌは深く関わっていると言ってよいだろう。 このように考えたので、この浮島はヴィシュヌ自身、あるいはその化身と理解して良さそうに思えた。 この考えをもとに、さらに漂流のできごとについて考えてみた。 さて劇中の浮島のエピソードから少し前に遡る。 パイの生命維持の根幹にある原初の凶暴な本能としてトラは活動している。 パイは理性、あるいは表層上の自我であろう。 そのトラがハイエナを殺す。 そのあとパイはトラを飼い馴らしはするが、トラが恐怖の対象として、さらには慙愧の象徴として存在することに変わりはなかった。 そんなときに、ヴィシュヌが稲妻として顕現した。 そのヴィシュヌに、パイがトラに見せたがったのも道理だ。 彼は己が思うにまかせないでいる本能を神に直接見てもらい、神からの言葉、あるいは承認、あるいは赦しを得たかったからだ。 嵐の後で、パイは救命ボート上でトラの頭を膝の上に乗せる。 残念ながら神からの赦しの件はわからなかった。 大切なところを見逃したのかもしれない。 ひょっとしたら本能とはある程度の共存協定が整ったのかもしれないし、あるいは単に飢餓と渇きでパイの理性も本能も疲れ切っていただけなのかもしれない。 ここのところの考察は不十分なまま残っている。 そして場面は進み、浮島、つまりヴィシュヌへ漂着する。 ヴィシュヌの体内で、パイは、「生きることは殺すこと」、という生命のありようを知る。 昼間が生命で満ちあふれていても、夜として象徴される死の世界が、生の世界のすぐ隣に存在し、その両者が織り成す構造こそが、生と死のあるこの世界、この宇宙の実相だと深く理解するに至る。 長期間の漂流という極限状況にあっては、それが凶暴な本能であろうと、人倫にもとる人肉食であろうと、それらすべてははじめからヴィシュヌにより赦されている。 なぜならすべてはヴィシュヌがつかさどること、つまりヴィシュヌの体の中でのできごとであり、ヴィシュヌが維持する世界の摂理のひとつの現われに過ぎないのだから。 原初の世界での生命のありようは、食べて、そして死ぬことの二点に尽き、そこに形而上学的価値観が入り込む余地はない。 そのような世界をヴィシュヌから生まれたブラフマーは造りあげ、その世界をヴィシュヌは偉大なる神として維持し続けている。 したがって原初の世界のように、生か死かの二者択一を突きつけられる状況では、パイの救命ボート上でのさまざまな行為は、はじめから、無条件で赦される。 なぜならパイも生きて、そして死ぬ身であるから。 この世界の一員として、ヴィシュヌから生命と、そしていずれ死すべき運命とをその身に備えさせてもらった存在なのだから。 これがこの寓話で語られた信仰の本質のように思う。 実際のところ、この島を出発するときにはまだパイは死に対する恐怖だけが気持ちの上で勝っていたようにも思う。 だがその後で、上で述べたような内容を理解し、自分の信仰として身に着けたのだろう。 浮島の後の話に進む。 メキシコの海岸で、トラはパイの願いも空しく振り向かず、さよならも言えず、森に消える。 パイには自分の分身であったトラ(通常の食欲、性欲、睡眠欲よりもさらに深いところにある原初の本能)に深い感慨があったことだろう。 しかしその上で漂流期間では必要だったトラは、文明世界に戻ったパイ(理性)にとって今後は制御したい、支配下に置きたいと切望するものともなった。 だからこそ、もうろうとした意識の中でも別れを告げたかったのだろう。 パイの理性はそのために、本能にはっきりとした決別を告げたかったのだ。 だが、そうはならなかった。 本能は、本能のまま、原初の姿を保ったまま森へ消える。 本能は理性のコントロール下にはいることを拒絶した。 パイは泣いたが、極限状況を生き延びたパイには分かっていたはずだ。 理性が望んでも、本能に別れを告げることなどできないことを。 かりにまたパイが危機にさらされることがあったなら、この荒々しい原初の本能はパイの表層の意思や理性とは無関係に、パイの生存を維持している生命活動そのもののために再びその凶暴な姿を現すだろう。 振り向きもせず、唸り声すらたてずにただ消え去っていったトラの姿に、実はこの理性とは完全に独立した本能の働きが担保されていたのではないだろうか。 私にはそう思えてならない。 劇中現在において、パイはこの凶暴なるトラの件を引きずってはいない。 自分に凶暴な本能が潜んでいることを自覚している。 そうでなければトラの登場しない第二の話を他人に語ることはできない。 パイはトラが潜む自分自身を怖れてもいないし恥じてもいない。 その凶暴さを含めて自分は自分であると考え、しかもその考え自体が信仰で赦されていると自覚し、かつ満足もしている。 落ち着いて訪問者に話ができること、そして幸せそうな家族の存在がその証左だと思う。 最後に、 光るものが神性の表現だと考えた場合、稲妻や浮島以外にも神は現われていたのではないか。 この観点からすると、クジラは間違いなく神の化身であろうし、その直前の光るクラゲの群れもまた神性を帯びたものだっただろう。 これらのように、夜間のシーンでは光るものは分かりやすいが、それでは日中のシーンではどうなのだろう。 筏(いかだ)の直下で採れた大きな魚(シイラかな?)も緑色にキラキラ輝いていたので、神のひとつの顕現であった可能性がある。 トビウオやそれを追いかけてボートに飛び込んできたマグロはどうだろう。 これは夜のシーンだが、星空を映した鏡のような海面のシーンも、実は神によるおだやかな見守りだったのかもしれない。 この映画には私が気づかなかった神性を示すシーンやモチーフがあったのかもしれないなと、今になって思っている。 それらの神性を汚さないためにも、この映画は美しく撮られたのではないだろうか。 もう一度観る機会があれば、それらをひとつひとつ探してみたい。 いい映画だと思います。 再見したい気になりました。 あ、ちなみに我が家での実験では バナナは水に浮きました。 ブラフマンの解釈とても参考になりました。 ありがとうございます。 この映画で気になったのは船です。 名前がTSIMTSUM(ツィムツーム)号、救難ボートにも同じ名前があります。 これは縮小の意味で、世界の縮図というメタファーがこめられています。 つまり、貨物船はノアの箱舟で、ボートは個人の心でしょう。 この船名はカバラ思想からきていますから、ボートは「生命の樹」を象徴していて、シートがかかった部分が陰で、シートが無い部分が陽なのでしょう。 パイの理性が陽で、野生や本能が陰かと。 それでトラはシートの中にいました。 トビウオなどの食料を奪い合ったパイ(人類のメタファー)が、次のシーンでは食料を分け合います。 シートの境界を巡ってオシッコを掛け合い縄張り争いしますから、シートの境は国境線をめぐって争う人類も象徴しているのだと思います。 こんな印象を持ちました。 日本の貨物船にしては変わった船名だなぁと思っていましたが、 カバラに関係があったのですか。 カバラは、その名称だけは聞いたことがありましたが、内容までは知りませんでした。 いちおういくつかのサイト(ウィキを除けば、『ヘブライの館2』が良かったかな)を覗いてみましたが、とても理解したと言えるほどの知識は身につけておりません。 ですが、ボートを「生命の樹」ととらえて陰と陽とに分け、おのおのが「理性」と、「野生」あるいは「本能」の比喩であるという考えは、たいへん示唆に富むものでした。 実はこの作品の鑑賞後に、テレンス・マリックの『ツリー・オブ・ライフ』を観た後のような気分になっていたのですが、この作品にも「生命の樹」が隠れモチーフとしてあったなんて思いもよらなかったです。 ただ、この物語が人間の社会全体としての争いまでをもその比喩の中に含んでいるのかについては、私は否定的な見方をしています。 なぜなら国境をめぐる争いは、国家間や部族間の利害、経済問題、歴史といった言わば世俗的な事柄で決められていることが大半でしょうし、純粋に信仰や宗教だけで決められているものは少ないのではないかと思っているからです。 せっかくのレスに、ちょっと反論しましたが、うさきちさんのお考え自体を否定しているわけではありません。 私はまた別な立場にいる、という表明だとご理解ください。 私は多様な考えに接するのが好きなので、うさきちさんのレスはうれしく思いましたし、ほんとうに参考になりました。 ラストで家庭を持ったパイが語ったように、物語を聞いた後は、聞いた人自身の、個人の物語になるのだと思います。 ですのでご容赦いただければと思います。 実は今、美しい夜空の下で海の底に横たわる船まで視点が移動し、光りを帯びた母親の顔が現われたシーンを思い返しています。 このあたりからトラがおとなしくなっていたような気がしていますが、これはトラがこのイメージを見せたのか、それともトラも同じイメージを見ていたのか、いまだ結論をくだせないままでいます。 本能こそが真の信仰へいざなうのか、本能もまた理性と同じように信仰を望むのか。 母親のイメージも、ヴィシュヌの化身と考えるべきか、あるいはヒンドゥーではなく、聖母マリア信仰?? もちろん単に母親への想いが生み出したものなのかも…などなど、いろいろな想像が湧き上がってきます。 ベンガルタイガーの耳の裏が、紺色のような色合いだった点とともに、記憶に残ったシーンの一つでした。 二度目の鑑賞で気づいた点がありました。 一回目にも聞いていましたが、完璧に失念していました。 これらから改めて浮島のことを考えると、やはりあの島はヴィシュヌ神と考えて間違いはないと思います。 一回目は聞き逃していました。 ……これは初見時には花か蝶々のように思ったのですが、今回は母親がクリシュナ神をパイに教えたときに地面に描いた模様のように見えました。 まあ日本人に生まれたせいで日頃から多神教になじんでいるので、ヒンドゥーのいろいろなモチーフに共感しやすかったのかもしれませんが、あまりキリスト教のにおいは感じずに済み、うれしく思いました。 それでも西欧社会で評価が高かったということは、キリスト教信者もそれなりの満足を得たのでしょうから、各宗教に関するアン・リー監督の描き方の「さじ加減」が、絶妙にうまかったのでしょうね。 普段神などは信仰していないにもかかわらず(今後も信仰する気はないのですが)、率直に「祈り」について思いを馳せることができた映画でした。 原作を読む気はないのですが、映画はさらにもう一度観たいなと思っています。 返信を投稿• 長いので根気のある方以外にはあまりお奨めはいたしません。 ただ、浮島の意味するところがさっぱり見当がつかなかった。 このもう一つの話において、この浮島はいったい何の比喩だったのだろう。 その解釈が思いつかず、ボゥ〜っと考えていた。 パイの命をつないだ昼間の真水のプールは、夜には強烈に死を暗示する。 種があるはずの実の中心に歯があった植物は、諸行無常とも、生者必滅とも、あるいは輪廻転生ともとれる。 つまりこの島全体が、死をも含む生命の実相を表しているのだと考えられ、その解釈は一応仏教の解釈にも馴染んでいるように思えた。 それにこの浮島が仏教の教えで解釈されるものならば、序盤において仏教は重要なモチーフのひとつとして登場していなければならない。 しかしそのような構成ではない。 それではこの島のシーケンスに至って、ようやくはじめて仏教が詳細に述べられたのだろうか。 だが初めて脚光を浴びる仏教が、このようなおぞましさ、後味の悪さを残すような描かれ方で終わってよいものだろうか。 少なくともこの原作者には特定の宗教を誹謗する姿勢は感じられない。 おまけに劇中でのパイは仏教徒でもない。 したがってこの浮島のパートは仏教をモチーフとしたものではあるまい。 浮島の全景は仰向けに寝ている人の姿であり、なおかつぼんやりと光っており、その絵柄からすればやはり神性を帯びたものととらえるべきだと感じた。 これらの宗教は、本来の仏教、つまり釈迦がその生存時に直接説いた仏教とは異なり、すべて神を必要とする宗教だ。 そして嵐の時に祈りを捧げていたのは、ヒンドゥーのヴィシュヌ神だ。 ヒンドゥー以外ではどうか。 イエスなら、その亡骸は通常十字架の上か、マリアの膝の上であろうし、この島の不気味さとは相いれない。 イスラム教ではその教義から言って具体的な姿が映像として表現されることなど到底あり得ない。 またヴィシュヌの役割が宇宙、つまりこの世界の維持であるのなら、生と死、つまり生命の実相にも当然ヴィシュヌは深く関わっていると言ってよいだろう。 この考えをもとに、さらに漂流のできごとについて考えてみた。 パイは理性、あるいは表層上の自我であろう。 そのトラがハイエナを殺す。 そのあとパイはトラを飼い馴らしはするが、トラが恐怖の対象として、さらには慙愧の象徴として存在することに変わりはなかった。 そのヴィシュヌに、パイがトラに見せたがったのも道理だ。 彼は己が思うにまかせないでいる本能を神に直接見てもらい、神からの言葉、あるいは承認、あるいは赦しを得たかったからだ。 残念ながら神からの赦しの件はわからなかった。 大切なところを見逃したのかもしれない。 ひょっとしたら本能とはある程度の共存協定が整ったのかもしれないし、あるいは単に飢餓と渇きでパイの理性も本能も疲れ切っていただけなのかもしれない。 ここのところの考察は不十分なまま残っている。 昼間が生命で満ちあふれていても、夜として象徴される死の世界が、生の世界のすぐ隣に存在し、その両者が織り成す構造こそが、生と死のあるこの世界、この宇宙の実相だと深く理解するに至る。 なぜならすべてはヴィシュヌがつかさどること、つまりヴィシュヌの体の中でのできごとであり、ヴィシュヌが維持する世界の摂理のひとつの現われに過ぎないのだから。 原初の世界での生命のありようは、食べて、そして死ぬことの二点に尽き、そこに形而上学的価値観が入り込む余地はない。 そのような世界をヴィシュヌから生まれたブラフマーは造りあげ、その世界をヴィシュヌは偉大なる神として維持し続けている。 したがって原初の世界のように、生か死かの二者択一を突きつけられる状況では、パイの救命ボート上でのさまざまな行為は、はじめから、無条件で赦される。 なぜならパイも生きて、そして死ぬ身であるから。 この世界の一員として、ヴィシュヌから生命と、そしていずれ死すべき運命とをその身に備えさせてもらった存在なのだから。 だがその後で、上で述べたような内容を理解し、自分の信仰として身に着けたのだろう。 しかしその上で漂流期間では必要だったトラは、文明世界に戻ったパイ(理性)にとって今後は制御したい、支配下に置きたいと切望するものともなった。 だからこそ、もうろうとした意識の中でも別れを告げたかったのだろう。 パイの理性はそのために、本能にはっきりとした決別を告げたかったのだ。 本能は、本能のまま、原初の姿を保ったまま森へ消える。 本能は理性のコントロール下にはいることを拒絶した。 パイは泣いたが、極限状況を生き延びたパイには分かっていたはずだ。 理性が望んでも、本能に別れを告げることなどできないことを。 振り向きもせず、唸り声すらたてずにただ消え去っていったトラの姿に、実はこの理性とは完全に独立した本能の働きが担保されていたのではないだろうか。 私にはそう思えてならない。 自分に凶暴な本能が潜んでいることを自覚している。 そうでなければトラの登場しない第二の話を他人に語ることはできない。 パイはトラが潜む自分自身を怖れてもいないし恥じてもいない。 その凶暴さを含めて自分は自分であると考え、しかもその考え自体が信仰で赦されていると自覚し、かつ満足もしている。 この観点からすると、クジラは間違いなく神の化身であろうし、その直前の光るクラゲの群れもまた神性を帯びたものだっただろう。 筏(いかだ)の直下で採れた大きな魚(シイラかな?)も緑色にキラキラ輝いていたので、神のひとつの顕現であった可能性がある。 トビウオやそれを追いかけてボートに飛び込んできたマグロはどうだろう。 これは夜のシーンだが、星空を映した鏡のような海面のシーンも、実は神によるおだやかな見守りだったのかもしれない。 それらの神性を汚さないためにも、この映画は美しく撮られたのではないだろうか。 もう一度観る機会があれば、それらをひとつひとつ探してみたい。

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