小室 哲哉 keiko。 小室哲哉の嘘とは?KEIKO現在画像が元気でコメントも!親族怒りの理由

小室哲哉氏 KEIKOと離婚調停 婚姻費用 月8万円掲示か(page2)

小室 哲哉 keiko

提供 10分間、記者の質問に答えたKEIKOと姉(写真右) 世間を驚かせた電撃婚が2002年のこと。 稀代のカリスマ音楽プロデューサー・小室哲哉(60才)と彼を支えたシンガーの妻・KEIKO(47才)。 今や直接話をすることすらない。 大分県大分市から車を30分ほど走らせると、戦国時代にキリシタン大名・大友宗麟が築いた城下町である臼杵市にたどり着く。 10月中旬の週末、風光明媚なこの街で、白のロングトップスにデニム、足元は真っ赤なバレエシューズ姿の女性が本誌・女性セブンにこう話した。 「ジムやカラオケにはたまに行きますよ。 現在、東京から離れ、実家の大分県で暮らしている。 その彼女に夫・小室氏との復縁について尋ねると、首を横に振りながら、 「もうそれは全っ然!」 と困ったような笑みを浮かべて否定した。 2011年10月にくも膜下出血で倒れたKEIKO。 5時間にわたる大手術で一命は取り留めたものの、高次脳機能障害が残った。 だが冒頭の様子からもわかるように、彼女の体調は順調に回復している。 「本当に元気で日常生活にはまったく問題なく、歌や踊りの練習をしながら時々上京しています。 今年1月には休止していたツイッターを再開し、4月にミスチルのライブを鑑賞したことをツイートしていました」(テレビ局関係者) 一方の小室氏は8月、福島県で開かれた中高生の交流会に姿を現した。 「スマホアプリを使った作詞作曲についての講義を任されたようです。 引退会見以来、約1年半ぶりの公の場でした。 「まだ、ふたりは婚姻関係にありますが関係は修復不可能です。 すでに離婚調停中で、今年に入り5回も調停が行われているそうです。 それだけでなく、別居中の生活費である『婚姻費用』についても争っています。 小室さんが最初、KEIKOさんに提示したのは月額8万円だったと聞きました。 あんなに収入があるのに、さすがにその額はおかしいとKEIKOさんは思っていて…」 ふたりに亀裂が入った事の発端は、昨年1月。 病に倒れたKEIKOの看病に追われていたはずの小室氏が、看護師と数年来にわたって不倫関係にあると『週刊文春』に報じられたことだ。 即座に会見を開いた小室氏は、病床のKEIKOが音楽に関心を持たないことや、会話や集中力が続かず「小学4年生の漢字ドリル」をやっていることなどを赤裸々に語り、介護で心身疲れ果てたとして突然の引退を表明した。 「看護師の存在を知らなかったKEIKOさんは小室さんの会見をテレビで見て、涙を流したそうです。 それに、彼女の本来の姿は小室さんが話すような状態ではなかったので、公の場でウソをつかれたことにショックを受けていました。 会見以降、小室さんと彼女が顔を合わせることは一度もなかったそうです」(別の芸能関係者) それからというもの、連絡を取り合う際は弁護士を通じてで、直接話すことはなくなったという。 そして、離婚調停へと進展した。 「その調停が難航しているんです。 KEIKOさんも離婚の成立を望んでいるのですが、なかなか認められずにいる。 「小室さんは昔から派手な生活を送る一方で金銭トラブルが絶えなかった。 過去に香港で立ち上げた音楽制作会社は70億円以上の損失を被ったとされています。 2008年には、音楽著作権の譲渡を巡る詐欺事件で、会社社長から5億円をだまし取ったとして詐欺容疑で逮捕されました。 「ヒットメーカーである小室さんが受け取るカラオケなどの印税を含んだ収入は年間1億円に達すると聞きます。 昨年の会見後には港区にある家賃100万円超の高級マンションに引っ越して、今も住み続けています。 高額収入があるのに、関係各所への返済がまだ済んでいないそうなんです」(音楽業界関係者) 離婚調停でも、そうした小室氏の金銭問題がネックになっているという。 実家への借金について、彼女がどれだけ把握しているかはわかりませんが、いまだ返済されたとは聞いていない。 四面楚歌の小室さんですが、KEIKOさんとの離婚調停がこのまま不成立ならば、裁判という可能性も充分ありえます」(前出・音楽業界関係者) 小室氏との関係はどうなるのか。 冒頭のKEIKOへの直撃シーンに戻る。 「いやぁ…ハハハ(苦笑)」 返答に窮するKEIKOに代わり、横にいた彼女の姉がこう答えた。 「どうなんだろう、そこはちょっとわからないですけども。 そこまで(の額)はもうないのかなと思います」 KEIKOも姉も「詳しい話ができず心苦しい」や「いつかタイミングが来れば…」などと繰り返し話しており、離婚調停がうまく進んでいない現状をうかがわせた。 2002年に5億円挙式をしたふたりの関係に、いつピリオドが打たれるのだろうか。

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小室哲哉とkeikoが離婚調停!慰謝料は?現在の収入は?子供はどうするの?

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例えば、CDの売上だ。 しかし音楽プロデューサーをいれたなら、小室哲哉は段違い。 なんと約1億7000万枚と言われているのだ。 例えば、2015年に秋元康がようやくシングル1億枚を突破したが、AKB商法の少数多売(売上6000万枚)も込みである。 純粋に1人1枚の売上で、小室哲哉を超える人間はいないだろう。 アルバム3枚で1000万枚を達成したglobe(平成カラオケ24位)。 トータル2000万枚を売り上げたTRF。 同性に圧倒的支持を受けると双璧をなして、なりたい顔ランキング1位にもなったことがある(平成カラオケ49位)。 他にもダブルミリオン、ミリオンを出している、やらも小室ファミリーだった。 豪華という言葉がチープに見えるのが、小室哲哉のファミリーである。 華原朋美と安室奈美恵が小室哲哉のプロデュースであるならば、当時の若い女性のトレンドは小室哲哉が作り出していたと言えるのだろう。 伝説のファッションリーダーおじさんの異名を授けることにする。 売上で換算すると300億から400億になっているだろうことを考えると、音楽プロデューサーである小室哲哉に入ってくるお金はえげつないものになっていることが想像できるだろう。 これが、バブル崩壊後の芸能界衰退期の活躍であるというのもすごすぎる。 1位消費者金融会社首脳、2位弁護士 大きな弁護士事務所の首脳 、3位化粧品販売業、そして4位音楽プロデューサー小室哲哉だ。 なんと並み居る大企業を押しのけて、音楽プロデューサーの小室哲哉個人が、高額納税者ランキング4位となり、10億51万円を納税しているのだ。 しかも翌年も、納税額11億7342万円で4位だ。 このときの推定所得は、23億円だったと言われている。 「通帳は10桁までしか表示されないから、ケタがわからなくなった」10桁とは10億である。 つまり当時の小室哲哉は、貯金100億を超えていることが分かっており、最終的にどのぐらいにのぼったのか不明である。 例えば、今でも数千万入ってくるというは平成42位だし、印税合計20億以上入ってきているという虎舞竜は100位にすら入っておらず詳しい順位すらわからなかった。 音楽プロデューサーで配分も多い小室哲哉のカラオケ印税は、百億を超えていてもおどらかない 小室哲哉の名曲の中で2番目に人気があるのがDEPARTURESである。 原因は、トレンドの変化だ。 他にも、、やとMISIA、椎名林檎、娘と、小室哲哉系のダンスミュージックでない曲が台頭をはじめて、押され気味に。 小室哲哉プロデュースの売上もどんどん落ちていった。 それでも1年100万枚は超えていたのが小室哲哉クオリティーである。 報道のされ方もあり、小室哲哉自身にあまり興味がない人にとっては、悪い人だという印象が強くなったかもしれない。 特に同時接続者数は、2011年でniconicoやyoutubeでもない配信サイトで行われて、2万7000人を達成しているのだから、やはり伝説の人だ。

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小室哲哉と泥沼離婚調停 KEIKOに直撃「復縁なんて全っ然」

小室 哲哉 keiko

親は出身。 東京多摩振興特命武蔵国府中大使。 元芸術情報学部。 妻はのの。 従兄弟はアイドルグループのメンバーで音楽家の。 愛称は「てっちゃん」「先生」「TK」など。 身長167cm、体重57kg。 略歴 学生時代 3歳から12歳まで教授の下でのので只管同じフレーズを弾くレッスンを始めて、音感のベースを学ぶ。 小学生の頃から既にクラシック音楽のインストゥルメンタルの楽曲を作っていた。 小学5年生のとき、母がを購入。 これが鍵盤楽器との出会いとなる。 母より先にコードを覚え、10日で基本操作をマスターし、エレクトーンの先生を驚かせた。 同じ頃、母方の親戚の叔父からギターコードを習い、マスターするのが速くて叔父を驚かせた。 練習の時にのメロディの歯切れの良さ・の異常な速さ 、クラシック音楽の練習曲の子供でも飽きない多少の変化が考えられた構成 に影響を受けた。 反面は独学であり、プロの鍵盤奏者として改めて真剣に向き合い、自分の腕を客観視し始めたのは実に1983年に入ってからだった。 ただしそれが功を奏し、後に「・を前提にした発想」より「主旋律は1本のみ、単音を目立たせる構成」という基本が小室の中で出来上がった。 音楽の時間に50分で16小節を譜面に書く作曲のテストがあった際、教師が小室の作品を見て「誰かは言いませんけどこの中ですごく上手な人がいました」と言った後、その曲がピアノで披露されて、その曲を他のクラスメイトがリコーダーで吹いた。 小室は当時を振り返り「目立ちたくない時期だったためものすごく嫌だった」「だけど自信にはなりました」と語っている。 で・・・12チャンネルステレオを背景に演奏するを間近で見て、「もしの時代と同じ楽器しかなかったら僕はこの世界で勝負しなかった」と後述する程の衝撃を覚える。 中学生の時にシンセサイザーを無性に買いたくなり、家にあった・ヴァイオリン・エレクトーンを家族に無断で売り、当時16万円以上したというシンセサイザー「」を購入した。 家族からは叱られたものの、「当時のシンセサイザーはエレクトーンより音数も限られていて、機体も小さかった。 だけど間違いなく自分が得意なものとプライドを持てる」と確信し、それを切っ掛けに改めて練習を続けると共に、オリジナル楽曲の作曲を本格的に始める。 の「」「」「」「」・の「」等後に提供する楽曲の雛型約20曲をその頃に作曲したという。 高等部に入学。 小室の作曲テクニックにクラスメイトが憧れる余り、クラスメイトの半数以上の作曲の宿題を肩代わりさせられた。 音楽担任は小室が卒業するまで気づかなかったという。 この頃から・・・・ ・・・・・・・等の洋楽を・を中心に漁るように聞いた。 その中でも影響を受けたミュージシャンとして、・・・・・等のジャズ畑のピアニストを挙げ、特にキース・エマーソン ・キース・ジャレット に関しては、即興演奏中心でプレイする姿勢に感銘を受けている。 新宿のロック喫茶店に毎日入り浸り、ファンとしてミニコミ誌「ロック・ボトム」に参加し、アルバムの感想と評論を書いた。 に進学し5年ほど在籍、在学中にプロ・ミュージシャンとしての活動を開始する。 初めての現金で支払われたは、18歳でダンスパーティーのバックバンドでキーボードを担当した時の演奏代で5千円だった。 ミュージシャンとしての腕前は自他共に認める程の下手さだったが、「シンセサイザーを使っている珍しいミュージシャン」という点で注目されて、色々な所からスカウト・セッション・レコーディングへの参加の依頼につながった。 大学の講義にはほとんど出なかったがだけは面白く感じ、統計学の講義にだけは必ず出席し「どういう人達はどこに響くかを、リサーチ・計算して考える」ことにやりがいを覚えた。 その後も音楽活動に没頭し、授業料を楽器代に使い廻していたために単位が取れず、小室も「授業料を払う位ならシンセサイザーを買った方がいい」と考えたためにとなる。 「真っ当な職に就くべきなのか」と焦りを感じつつも、音楽雑誌「」の当時の編集長の紹介でいくつかのレコード会社とつながりを持ちながら、その後も数々の数え切れない色々な人のバックバンド・スタジオミュージシャンを務め、デビュー前のTMのメンバー・スタッフのマネジメントも率先して取り仕切り、コンテストで腕を慣らした。 1982年に機材運搬のための自前の自動車を売り払ってまで新しい機材を用意し、各方面に数々のデモテープを応募した。 その時の志向は ・・のような「の方面に行き過ぎず、飽くまでもの雰囲気を守り、如何に高級な機材を使わずに巧くの音色を作るか」を考えながら入念に制作していた。 そうしていく内にデモテープが・の目に留まり 、本格的にTM NETWORKデビューへの下準備を進めていった。 その活動はTM NETWORK・ソロ活動の際の企画・制作費・プロモーションの環境整備に一役買った。 特に当時共同で作業する機会が多かったに関して小室は「僕が提示しようとした新しさを一番理解してくれた。 その上で他の歌謡曲とどのように馴染ませるか・どうフレーズとコード進行をアレンジすればヒットするかを考えるときに随分助けてもらった」と語っている。 (昭和61年)に渡辺美里へ提供した「」が、金賞。 TM NETWORKは、に発表した「」で一躍人気バンドとなり、にはに出場。 しかし、小室は「何で『Get Wild』が1位じゃないんだ」と悔しがり、それ以来レコード会社と一緒に他の人気アーティストと発売日が飾らないように、スケジュールを自ら調整するようになる。 1988年初春から、「」等の制作・海外の動向を探り、最新の音源に直接触れるために小室一人の仕事で費用をペイすることを条件 にに渡り、半年程をで過ごした。 部屋に置いたで曲を作り、製品盤のイメージが見えてきたらのプライベートスタジオに足を運んでデモテープを作り、それを郊外のレコーディングスタジオで仕上げるという現地のミュージシャンと同じスタイルでの制作活動を繰り返した。 あわよくば現地にて女性ボーカリストをスカウトし「 TM international」というTMの姉妹ユニットを結成・世界デビューさせる計画があったが、の1stアルバム「」の売り上げ規模をみて、日本と海外のマーケットの差が如何に隔絶しているかを思い知らされたこと ・「・がシンクロしていない。 これでは踊れない」と現地のミュージシャンに忠告され、自分の無力さを痛感したこと・プロデューサー集団()の仕事を間近で見たことによりスタジオワークの面白さを知ったこと ・のロンドンでの浸透にショックを受けたこと ・日本との連絡手段として、直接話すときは国際電話、企画書のチェックにはFAX、デモテープの配送には郵便と用途別に使わなければならず、無駄な時間と通信費がかかり、本来の仕事に支障をきたしたことで白紙になった。 この件がきっかけでそれ以降、1年に最低でも1回、多くて4~5回はスタジオの設計と機材の研究も兼ねて、ロンドンの複数のスタジオでレコーディング・ミキシング作業を行うようになる。 その他にも作曲家のの次から次へめくるめく感覚にも影響を受け、研究した。 リードボーカルを担当した「」、「」が連続で1位を記録。 - の間には、アニメーション映画の「」、の「」、「」、テレビドラマの「」、舞台ミュージカルの「」の 劇中音楽を手掛けた。 1991年頃、と対面した際に松浦からTMの楽曲をユーロビート調にアレンジしたリミックスアルバム「」の企画を持ちかけられた時に「TMの作品が初回プレスは売り切っても、バックオーダーが発生しないから楽曲がファン以外に広がらず、カラオケでもディスコでも渡辺美里さんの曲しかかからない」という危惧・諦めからTMの固定ファンを「15万個の消しゴム」と例えるようになり、当時新興で軌道に乗り始めていたエイベックスからの誘いには最初は及び腰だった。 だが松浦の「だったらTMの楽曲がかからないような所をターゲットにすればいいじゃないですか。 絶対格好悪くならないようにしますから」「ヨーロッパでは一つの音で、ダンスフロアがぶわっと盛り上がる。 そういう作り方の音楽も面白いですよ」と勧められたこともあり、1992年から自分のベースの一つであるが「どうしたらそのジャンルが大好きな固定ファンから不特定多数の大衆に広がるか」をDJとして全国を回り音色・出演メンバーに対する若者の反応を確かめ、オーディションの審査員を務め、地道にスタジオで作曲活動をする等の試行錯誤をしていた。 ダンス・ミュージックを主軸に専念した理由として、「カラオケとディスコが流行りだしていて、ディスコの後にカラオケに行く人が多かった。 でも、歌う曲は・さん・のような熱唱しなければいけない型ばかりで、ただタンバリンを持ってメロディに合わせて踊るだけでは無理がある曲が多かった。 だから、歌うか・踊るかどちらに行っても楽しめる曲がもっとあってもいい。 僕から見るとそこがマーケットとしての空白だった」と語っている。 しかし、1970年代 - 1980年代のシンセサイザーだとどうしても難しいプログラミングができないため、やむを得ず「メロディーとリズムが戻ってくる」パターンを作って繰り返さなければならず「流れが流暢でドラマチックで起承転結のある日本の歌謡曲」「さんのような涙・汗・エモーショナルな楽曲が名曲」と若者に受け入れられていた世間に対して、どうやったら反復が多くて無機質なダンス・ミュージックにロック・ミュージックに対抗できるパワーを持たせるか、音楽業界に入り込むかを考えていた。 しかし、小室がとライセンス契約を結んだ際、内では「他社のアーティストをプロデュースするなんて契約違反だ! 」「法的には何の問題もないが義理としてはどうか」と議論が巻き起こった。 これは当時の音楽業界では「音楽プロデューサーはレコード会社の社員・元アーティストの専属契約」であることが多かったためといわれる。 その問題に対応するためにデビューの際、TMとしての契約は引き続きEPICと結びながら、音楽プロデューサーとしてはフリーランスであるために、個人事務所「OPERA GIG(後にに改名)」を設立し、小室は音楽に関する全てのコンセプトを立てた。 それと同時に丸山が小室の個人事務所とフリー契約を結び、avexとの橋渡し役を務めた。 に音楽プロデューサーに徹する決意を周囲に表明する。 東京・のオフィスビルのフロアを借り切り、個人用のスタジオを3軒建て、ミキシング専任のスタッフをロサンゼルスとロンドンに抱え、配送スタッフを週2日定期的に行き来させる等、いつ誰とでも楽曲制作ができて、スムーズに海を越える態勢を整え 、「1993年はスタジオで音作りに明け暮れた」と述懐する程に、只管に楽曲のストックを増やす制作活動に徹した。 その時の状況を「世の中は既に仕事を分担してシステム化していくのに、全てを自分一人で決めていくなんて時代に逆行しているのではないか、やっていることはと同じだ」と迷いを見せたが 、反面作詞・作曲・編曲の内、小室の担当する作業がどれか1つだけだと制作に行き詰まり、敢えて3つ兼ねれば「メロディとコード進行が同じでも、音色と作詞次第で全く別の曲にできる」「作詞に行き詰ったときにコード進行をマイナーからメジャーにすることで全然違うイメージにする」「アレンジをからに簡単に様変わりできる」等仕事の組み合わせが3つ以上あった方がかえって仕事がやりやすいことに気付き、「大量のアイディアのライブラリーになるし、アーティストのキャラクターの色分けにもつながる」と語っている。 そうした要領で創作活動を行いながら企画書を練っていく内に、「TMでできることはもうないんじゃないか」「女性ボーカリストのための曲をプロデュース・ワーク的な部分で作りたい」とその内容は小室を含むTMの3人では到底収めることができるものではなくなってしまったために1994年、TMの活動停止を決意する。 その際のキーワードとして「解散」ではなく「終了」を全面的に押し出したのはその間際になってもなおTMの次のイメージと可能性 を見つけた自分に気付き、それを尊重するために「飽くまで第1期プロジェクト終了」「ニュース・ドキュメンタリー・としての『終了』という言葉のプロデュース」 というコンセプトから来たものである。 小室が後に「どう聞いてもわがまま」と振り返るほどの申し出を受け入れてくれた宇都宮・木根には感謝の意を示している。 小室ブーム 詳細は「」を参照 の終了前後から、、、、、、、、、、など、多数の作詞、作曲、編曲と音楽プロデュースを兼任して行った。 1994年から1999年の間に数々のやを打ち立て、各メディアにおいて「」、「小室サウンド」、「小室系」といった名称でカテゴライズされる、自身の少年時代からの夢だった という社会現象を起こした。 プロデュース手法の構築においてはに、打ち込みによるを基軸として世界的大ヒット曲を量産したとレコード会社をと考え、市場の要求とカラオケに通うファンのニーズに応えたソフトを自ら製造していく姿勢に対して「サウンドプロデューサーとして同じ志とノウハウ・戦略を持っている」と感じ取り、同時に「数字とクオリティに負けたくない」と悔しさをもらしたののプロデュース手法を参考にしたとされる。 実際に、小室本人が向けにプロデュースした楽曲は、打ち込みによるを基軸とした明確なサビのある歌モノであり、音楽に詳しくない一般層に対しても分かりやすいという特徴を持っていた。 松浦は「ぱっと聴いて、すぐ耳に残る分かりやすいフレーズ」を優先して作るように指示し 、その延長線上でミュージシャン・エンジニアとして様々な実験的演出を行った。 から、という多国籍メンバーによるユニットを結成して海外進出を図った。 小室ブームを迎え、日本の音楽が世界に通用しない現実を覆す試みとして開始されたが、日本国内で絶大なブームを迎えた小室本人の多忙によりに終了している。 から4年連続でプロデュースした曲がを受賞。 この頃から「提供する歌手本人に一度も会わないこともある、音にこだわればそれでいい、その場限りの関係の単純な楽曲のオファー」より「まずテレビ番組とのタイアップがあって、それに向けた楽曲のプロデュースをして欲しい。 部分的に見て頂いても構わないし 、最初から最後まで見てくれてもいい。 アーティスト・発売先・音色・曲順・タイトルもお任せしますので好きにして構いません。 レコーディングの予算・ジャケット写真・PV・ポスター・宣伝素材・と取材を行う雑誌と放送等のメディアもプランの段階からコストを管理して、版下チェックして下さい。 ライブの内容やスケジュールも監修してください。 製作費まで全部お預けします」といった全権委任のオファーが殺到するようになり 、アーティストとしてステージに立ち、プロデューサーとしてレコード会社のマーケティング会議からCDショップでのセールスプロモーションまで時間の許す限りどんな場所にも顔を出し 、「相手のオファーの内容が分かりにくくなる」という理由から第三者を通してのやり取りはしないでのスタッフを同伴してテレビ局・スポンサーに対して直接ディスカッション・売り込みを行い、要求を呑みつつも「作り手が直に交渉している」という事実を突きつける形で念押しし、出来上がった作品に対してスポンサーが断れないように持って行った。 小室が一番神経を使ったのが出稿量であり、「自分にくれるお金があるなら、その分スポットCMの本数を増やしてほしい」との思いから、テレビCMに提供した楽曲の著作権使用料は一切受け取らなかった。 それをカバーするため、マネジメント業務を子会社のプライム・ディレクション(現:)が新設した「TKルーム」に移管。 音楽業界以外の芸能界にも精通した小回りの効くスタッフが集められて、松浦をリーダーとするチーム体制での新しいマネジメントシステムがスタートした。 この時点で、「タイアップが決まらないと曲を書かない」と公言する程 のタイアップありきのプロデュース手法に対して表立った批判が目立ちだしたが、小室は「まずスポンサーに気に入られて、初めて僕の曲になるんです」 「プロのミュージシャンは売れることで、やっと自分の好きな音楽ができるようになる。 自分の好きな音楽よりも、売れる音楽を優先して作らないと駄目」 「聴いてもらえないということは『ポピュラー』の根幹に関わる。 『大衆に迎合しすぎる』とか、『売ることばかりを考えている』との批判を聞くが、これは大衆音楽なのに」 と割り切った意見を述べた。 にはにおいてプロデュース曲がトップ5を独占した。 1996年はglobeのアルバム「」が当時のオリコン記録を更新し、歴代1位となる売り上げ400万枚以上を記録。 安室奈美恵のアルバムも330万枚を超え、華原朋美のアルバムも250万枚を超えるなど、この年だけでプロデュース曲の総売上枚数は1,500万枚以上を記録した。 さらに1996年から2年連続でにおいて全国4位を記録、の納税額は11億7000万円で推定所得は約23億円だった。 1996年末には海外進出を狙いと組み、100万ドルを出資して香港に合弁会社TK NEWS(後の)を設立した。 1997年、のテーマ曲のリミックスを手掛ける等の世界展開を行った。 8月にマネジメント業務をプライム・ディレクションからアンティノス・マネジメントへ戻し、制作・生活拠点をロサンゼルスに移し、活動拠点をアジアに定めた。 「インターネットを駆使しての他所との円滑なスタジオワークのやり取り・近況報告」「アジアのマーケットの新たな開拓と米国への浸透」「米国のサウンドをアジアに持ち込み、『米国のサウンドと比べてアジアのサウンドはどうなのか? 』というリサーチの繰り返しによる、アジアのサウンドの水準の維持・向上」を目的にしていた が、後に「技術革新のスピードを読み違えてしまい、日本・ヨーロッパ・アメリカ・香港等、国毎にの速度や通信環境などに格段の差があり過ぎて、すれ違いが起こってしまった」「『自分が今まで築き上げたブランドと成績を求められている』と過大評価していて、現地のリスナーやシンガーと密着して共に音楽の質を育てていく活動を意識していなかった」 「ただ日本での企画に関する喧騒からスタジオに逃げたかっただけだった」 と語っている。 ブームの失速 1997年前半まではミリオンセラーを連発していたが、この頃から既存の小室ファミリー向け楽曲の曲調がテイストからへ変化している点(特にの楽曲が顕著)、同年夏に小室との関係性の急速に悪化によりが一時活動停滞したことや翌年1998年には・らのプロデュースが無くなり、全盛期の中心にいた安室奈美恵は出産のため休業し、ミリオンセラーを叩き出したも恋愛関係の清算による離脱等の複合的要因で小室ファミリーの規模が急激に縮小。 1998年には・・をプロデュースさせたものの、1996年前後の全盛期と比べて勢いは劣るものとなり、ファン離れが急速に進んだ。 翌1999年以降は日本の一般層に対して訴求力を持っていた明確なサビを持たせた楽曲展開を放棄し、やらを使って小室本人が次世代のダンス・ミュージックとして注目していた、楽曲全体として抑揚の無いトランスなどを日本のJ-POPに導入しようとした試みが、その後の人気低迷を決定付けてしまった。 また、更なる世代交代で新しいアーティスト(若干15歳ながら数々の金字塔を打ち立てた、エイベックスの脱小室派閥による露出過多戦略で女子高生を中心にブレイクした、オーディション番組からのプロデュースでブレイクした、HIP-HOPの本格的な火付け役となった、自称新宿系を称し独自の世界観で魅了したシンガーソングライターなど)のCDがヒットチャートの中心となり、小室プロデュースのCD売り上げに急ブレーキがかかり 、小室ブームが終焉した。 鈴木あみの提供曲はデビュー時から2000年までヒット上位にあったものの、で2000年9月を以て関係が絶たれ、それ以後は関係の活動がほぼ小室のウエイトを占めるようになった。 特に ・ ・宇多田 の台頭には、価値観と感覚の相違・引退を意識させられた程の衝撃を受け、「今とは違った形のプロデューサーにならなければ」「作りたいときに作れて、鍵盤を弾けるときに弾ける作曲家に戻りたい」と自分の将来の立ち位置に悩んでいた。 この頃になると「売れなくてもいい」「売れるに越したことはないけど、この時代にどれだけ人の心に届くかを重視している」 「さんの作品の大ヒットを見て、メガヒットに頼らないのような音楽を目指したいと思った」 と心境の変化を語った。 吉本興業へ移籍 1月にソニー・ミュージックエンタテインメントとの専属プロデューサー契約を解除し、前受の報酬金(印税)18億円を返還。 数々のミリオンセールスを導き出した安室奈美恵が『』を最後に小室ファミリーから独立した。 5月にと再婚。 また、小室が株式の大半を握っていたRojam社が香港株式市場(GEM)に。 を清算後、マネジメント契約をアンティノスマネジメントから所属に移す。 かたわらでタレントとしても活動し、同年のバラエティ番組「」のに『超ハンサム侍』として出演する等の話題はあったが、プロデュース業は好転しなかった。 9月にが日本の銀行として初めて本人所有の著作権を担保に10億円の融資を行った。 融資金は先述の専属プロデューサー契約解約による前受金返還に充てたことが後の5億円詐欺事件の公判で明らかにされた。 3月にASAMIとわずか10か月でスピード離婚(実子あり)。 そして11月にはと再婚。 TBSでがでされたことは話題となった。 しかし、ASAMIとの間で合意した約7億円の慰謝料を一括で払うことはできず分割で支払うことになったが、その支払いも資金繰り悪化のために8月頃には滞るようになったという。 この頃より所有していた、、、などの資産売却を行うようになった。 2004年には約70億円の株式評価損が生じたRojam Entertainmentの出資・経営から撤退した。 さらに9月にはへのスポンサー料7000万円を滞納していることも明らかとなった。 にの開局20周年番組に出演した際には自らの活動を振り返り「98年からの10年はなかなか曲が出てこなかった」 「もうやれることはやりつくした気がして貪欲になれなかった」 と語っていた。 5億円詐欺事件 、小室はに自分名義で登録している全楽曲806曲のを10億円で譲渡する仮契約を関西地方在住の個人投資家男性と締結。 前妻のASAMIが著作権使用料を差押さえているとして、その解除費用として5億円の先払いを要求し、までに5億円を受け取った。 しかし実際には仮契約段階で既に著作権の一部は、・・といった社に譲渡(音楽業界では著作者である作曲家や作詞家が音楽会社に著作権を譲渡して管理を任せる代わりに印税を受け取ることが慣例となっている )されており、小室には著作権がなかった。 だが小室は返金に応じなかったため、男性は2月に小室に対し逸失利益を含めた6億円の損害賠償を求め提訴。 小室が全額を支払うことで和解が成立したが、期日であった9月末までに小室は支払わなかった。 このため男性はにした。 検察側は小室が受け取った5億円を差し押さえ解除ではなく借金返済に使っていたことを把握。 当初から金を詐取する目的だったと判断し、2008年午前7時40分頃には小室との社長、広告会社の実質経営者の計3名を5億円の容疑でした。 なお、前日に大阪地検特捜部からの要請を受けたため前のシティホテルに滞在しており、逮捕時はなど一部のが特別編成となり、逮捕容疑の解説とホテル上空の映像を交えてホテルエントランス前から連行される様子を生中継していた。 11月21日に起訴され、同日に3,000万円を支払い保釈された。 2009年1月21日ににて初公判、3月12日に第2回公判が行われる。 第2回公判直前の、解決金を含めて6億5000万円を代表のがポケットマネーで立て替え、被害者に完済した。 被害者側に謝罪の手紙を送っているが受取りを拒否されている。 なお、この被害者に送るつもりだった謝罪文は第三回公判の際に、小室自身により読み上げられた。 」と証言した が、被害男性は「そのようなことは一切言っていない」と否定し、「民事裁判で和解が成立して決着している。 」と話している。 なお、のでは2008年11月から「小室哲哉氏の復活を願う会」というコミュニティが457人を集めたり、mixiのサポートを受けての紙ベースの署名活動も行われていた。 (でも行われていた。 )さらに小室の母親やマネージャー、弁護士の了解を得た上で署名活動と平行して裁判所への提出もありうるという大前提で小室に対して手紙を書く「小室哲哉さんへの手紙」という活動も行われていたりと、復帰待望論が起き、 小室の減刑を望む動きは、音楽業界や音楽業界関係者からもあり、実際に減刑嘆願書を出した音楽業界関係者もいた。 第3回公判は4月23日に行われて結審。 、より懲役3年、執行猶予5年の有罪判決が言い渡され、弁護側・検察側共に控訴はせずに、同年午前0時をもって刑が確定した。 再出発 、にて 2010年5月に復帰第一作としての楽曲「」をプロデュース。 また、翌6月にはへの提供楽曲が発売されることがマスメディア、および付の小室のにて明らかとなった。 『』の楽曲提供が決まり、作曲の他作詞、編曲も手掛けることとなった。 その後もレコード会社を問わず、、、らへ楽曲を提供している。 小室は、アイドルなどにたくさんの楽曲を提供していた80年代の頃に感覚が似ていると語っていた。 一方でにはのベスト盤がリリースがされ、未発表曲や、パッケージによっては未公開映像や小室のサインも提供された。 また、11月にへ楽曲「」を提供した。 2011年6月13日、の主催する音楽動画配信サイトにてストリーミング配信ライヴを行う。 瞬間最大視聴者は2万7000人を超え、合計視聴者数は14万4000人を記録した。 12月23日、にて開催される「HARAJUKU PERFORMANCE + DOMMUNE」の4日目に出演。 とのトーク&ライヴを開催した。 DMM オンラインサロン「」を開設し、ファンとの触れ合いの場も積極的に開催し、本人からのオンラインサロンにかける意気込みも語られている。 TM NETWORK 30周年 、肝炎対策大使任命式にて(左)と TM NETWORKがデビュー30周年を迎える年である2014年にはツアーやリリース、テレビ出演など活動を活発化させた。 春にはおよそ6年ぶりとなる全国ツアー『』がスタート。 過去楽曲をリメイクしたアルバム『』や新曲『』もツアーのスタートに先駆けてリリースされた。 同年10月29日には7年ぶりとなるオリジナルアルバム『』をリリースし、オリコン初登場8位を記録した。 同時に秋から冬にかけて行われたツアー『TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30』もスタート。 2015年2月にアリーナ公演『TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30 HUGE DATA』、3月に横浜アリーナにて単発コンサート『TM NETWORK 30th FINAL』を行い2012年から続いたシアトリカルなライブを完結させた。 よって、2012年から続いたTM NETWORKとしての活動も充電期間に入ることが発表された。 この節のが望まれています。 突然の引退表明 公には過去の事件から復帰し、順調と見られていた活動は、突然に終わりを迎えた。 2018年1月19日、看護師である女性との不倫疑惑記事が前日発売の『』に掲載されたことを受け、同日に記者会見を行い「お詫びとけじめ」として突如音楽活動からの引退を表明した。 小室は会見で、女性との不倫関係を否定し、妻の介護をする中での自身の精神の疲労を述べ、や左耳のといった病を患って左耳がほとんど聞こえなくなり、身体的な能力が低下したことで、自身の創作能力の限界を感じていたことを明かした。 一部週刊誌は作曲家が引退宣言を行うことは異例という趣旨の報道を行っており、インターネット上では「あの不倫報道は必要だったのか」などと芸能報道の公益性を問う意見も見られた。 バイオグラフィ• のアマチュアバンド「哀婉」で活動。 洋楽専門のレコード会社からの募集でラジオ局宛のリクエスト葉書を書くアルバイトを行うことで本格的に音楽業界に関わり始める。 1週間に500~600枚書き、「の『』をかけて」という内容だけでも千枚送っていた。 報酬は現金ではなく、70~80枚毎にコンサートのチケット・新作のサンプル盤のどちらかを1,2枚もらっていた。 プロ・ミュージシャンとしての活動を開始。 、、、、、、、等の・を経験。 系列「」のテーマソング・のBGM・のCMテーマ曲を手掛ける。 に参加。 の主題歌をロック調に編曲したCMソング「ROCKIN' ON THE 月光仮面」で手腕を発揮した。 2nd. アルバム『BASE AREA』で数曲を作曲した。 ミス・オレンジショックをプロデュース。 のライターの仕事を請け負っていた。 バンドを結成しては解散する時期を送る(「ギズモ」、「ステイ」、「イラプション」等 )。 の『ホタテのロックン・ロール』でアレンジを担当。 のサウンドプロデュースを行う。 のメンバーであったと新ユニットを組むことに合意しに参加。 を誘い「」を結成し、リーダー、作曲・編曲・シンセサイザー演奏を担当。 に応募。 「」で史上初の審査員全員満点のグランプリを受賞する。 、がアルバム『』とシングル「」同時リリースでデビュー。 と専属契約を結ぶ。 、「ロマンス」の編曲を担当する。 、大江千里「十人十色」の編曲を担当した。 アニメ映画「」サウンドトラックを担当する。 に曲提供(作曲)した「」がヒット。 精力的にライブをこなす。 TM NETWORKのアルバム『』、シングル「」がヒット。 ロサンゼルスでアルバム『』をレコーディング。 にマスタリングを初めて依頼した(Bernie Grundman本人が担当)。 角川映画「」サウンドトラックを担当。 単身渡英し、アルバム『』の楽曲制作を開始。 アイドルデュオ、のキララ()と結婚。 、のライブにゲスト出演、キーボードを演奏する。 「」で歌手としてソロデビュー、オリコン週間シングルチャート第1位を獲得。 続く「」も第1位を獲得した(松田聖子の「を阻止し、連続首位獲得記録を途切れさせた)。 アルバム『』をリリース。 ソロツアーも開始。 を本格的に使い始めた。 当人プロデュースによるシンセサイザー(キーボード)EOS B500発売。 角川映画「」サウンドトラックを担当。 オリジナルアルバム『』をリリース。 TM NETWORKが「TMN」にリニューアル。 「SPACE WORLD」を開催し、「Think Of Earth」を披露。 のと「」を結成し、シングル「」をリリース(オリコン最高位第2位)。 一度だけライブを行った。 ミュージカル「」の音楽を担当。 とプロジェクト単位・一作品毎でのライセンス契約を結ぶ。 自身の個人レーベル第1号となる「」を設立。 グループ傘下のディスコを会場としたディスコツアー「」を開催する。 TMのコンサートが終わった後夜23時頃に小室がとして自ら1時間程選曲してプレイし、その上にシンセサイザーによる即興演奏とMCも乗せていた。 プレイリストにはTMの楽曲も入っていた。 同時に小室がでダンサー・ボーカリストの審査員を務め、見返りとして全国のNOVA21グループ傘下のディスコでTMの楽曲が1日5回以上かかり、TMのラジオ番組「TMN EXPO '91」のスポンサーをNOVA21が務める等、関係を深めていく。 小室の個人事務所「OPERA GIG」を設立。 提供楽曲のセルフカバーを中心としたソロアルバム『Hit Factory』を製作。 初の全面プロデュースユニットとして Tetsuya komuro Rave Factory を結成。 と離婚。 、trfがシングル「」でデビュー。 、trfが2ndシングル「」発売洋楽中心であった日本のダンスシーンに大変革をもたらした。 米国でより「TRF Rave Factory」名義で12インチアナログ「OPEN YOUR MIND」を発売。 英国でFAZE-2 RECORDSより「t. f」名義で12インチアナログ「OPEN YOUR MIND」を発売。 、TMN"終了"。 「」の音楽監督(と共同)・主題歌制作を担当。 、 with t. komuroとして「」を発売。 初のシングル売上200万枚突破。 小室の個人事務所を「OPERA GIG」から「」に改名、2000年まで活動。 海外向けプロジェクトを開始。 、、のプロデュースも同時期に開始した。 trfのアルバム『』から民族音楽への関心を示す。 trf「」やEUROGROOVEの楽曲などでトライバル・ハウスに積極的に取り組んだ。 trf、、、、などが出演した「1999... 月が地球にKISSをする」の音楽を担当。 ミュージカルの楽曲は多くが商品化された。 ジャングル・シークレット・イベント「」を開催。 「」でシングル売上200万枚を突破。 「で世界一の売上を記録したプロデューサー」として海外の雑誌でも取り上げられた。 ドラマ「」の音楽を久保こーじと共同で担当。 、とともに、自身が参加するユニット「」を結成。 、「」でオーガナイザーをつとめ、・大阪に計6万人を動員する。 、・のハードウェア・技術面のサポートを受け、初の公式ウェブサイト「Planet TK」をスタートさせた。 はに設置していた。 、trfの「」でを受賞。 自身のレーベル「」をスタート。 、をデビューさせる。 、でライブ・パフォーマンス「」を開催。 globeのシングル「」で売上200万枚を突破。 globeのアルバム『』で売上400万枚突破。 オリコン歴代アルバム記録を更新。 華原朋美のアルバム『』が売上250万枚を突破。 オリコン歴代ファーストアルバム初動記録を更新。 のアルバム『』が売上300万枚を突破。 オリコン歴代アルバム初動記録、累計記録(女性部門)を更新。 安室奈美恵のシングル「」で受賞。 、がORUMOKからデビュー、へのアプローチを開始する。 、が小室哲哉プロデュースの曲を替え歌にした、TK替え歌メドレー(嘉門達夫もイニシャルは『TK』である)が発売された。 、TK替え歌メドレー2も発売となった。 9月、小室ファミリーのポータルサイト「TK Gateway」をスタート。 Webデザイナー・CGIプログラマーとして有限会社オン・ザ・エッヂ(現)のら4人が参加していた。 その他・と技術提携をし、短いスパンで新技術を導入した。 付けで1位から5位までを自身がプロデュースする楽曲で独占した。 カラオケソフトウェア「TK's karaoke engine」の販売がスタート。 、の開催する麻薬・覚醒剤禍撲滅運動の一環として、小室プロデュースによるライブ「」を開催する。 、小室哲哉とルパート・マードック率いるニューズ・コーポレーションが百万ずつ出資し、香港に合弁会社「TK NEWS」を設立。 アジア進出の足がかりとなり、2年後にから、からをデビューさせるきっかけとなった。 マードックは1998年に撤退したが、TK NEWSはの母体となった。 、23時から24時間の間にインターネットイベント「」が開催された。 、祖父の出身地、に小室アレンジの「ヨカッペ音頭」が流れるからくり時計を寄贈。 記念式典にも出席した。 「」として『』をリリース。 収益金は「こねっと・プラン」参加校に寄付され、教育現場への普及に貢献した。 globeの2ndアルバム「」で売上300万枚を突破。 また、日本史上初の東京、名古屋、大阪、福岡4大ドームツアーを敢行。 5月20日、香港で開催された国際音楽産業見本市「 ASIA」のエイベックスのショーケースに安室・TRFと共にglobeとして出演。 台湾で初の海外ツアー「」を開催する。 、アニメーション映画「」の音楽監修を務める。 配給映画「」のメインテーマのリミックスを手掛ける。 中日邦交正常化25周年記念公演「」を開催する。 とプロデュースユニット『』を結成。 後に、等に関わっていく。 安室奈美恵のシングル「」で売上が200万枚を突破、小室プロデュースのアーティストのシングルとしては最高の売り上げを記録、 を受賞。 ニューヨークでインディーズレーベル「」(1999年正式に設置)を始動。 鈴木あみ、、Ring、白竜などをプロデュースした。 グアム観光政府局より親善大使として「グアム大夏祭」「グアムアートイルミネーション」グアム旅行者にプレゼントされた「アイランドブレス」を総合プロデュース。 鈴木あみ・globeと共に現場に登壇し、ライヴを開催している。 美術監修は、イルミネーションの絵柄は島民からアイディアを募集して決定した。 7月2日、にて「小室哲哉の」が放送、本番組にてスタジオライブを披露した。 香港では小室・マーク・grace、東京では天方・久保が待機し、二元放送された。 と共同で腕時計「frequency」を開発する。 「機能」「30BPM - 250BPMまで調節できるリズム機能」「発光で刻む」等を内蔵させた。 globeのシングル「wanna Be A Dreammaker」でを受賞。 香港の返還1周年記念式典に参加。 globe・grace ip・OLIBIAと共にパフォーマンスを披露した。 香港にアジア最大の総合音楽プロダクションを目指す会社「」を設立。 中国・上海に「ROJAM DISCO」をオープン。 東京になどとの合弁会社「」を設立。 「」の審査委員長を務める。 (ちなみに副審査委員長は) が、小室哲哉との共同プロデュースでデビュー。 が小室哲哉との共同プロデュースでデビュー。 の公式アルバムにとともに「」で参加。 のメインイベント「」をジャン・ミッシェル・ジャールと共同で開催する。 ドラマのサウンドトラックを担当。 ビーチにてクラブイベント「」をDJ DRAGONと共同で開催し、3万人を動員した。 その内2万9千人以上はほぼ外国人だった。 1月末、華原と破局する。 TM NETWORKを再結成し「」を発売した。 元dosの吉田麻美と「」を結成し、の代表曲「AFRICA」をカバー。 のが名付け親のを「ADORE ME」の作曲とアレンジを担当した。 を訪問し、UNODC親善大使を授与される。 ニューヨークの国連本部で開催された国連親善大使会議に参加する。 TM NETWORKとKiss DestinationがTRUE KiSS DiSCレーベルから撤退。 個人レーベル「」を設立。 アーティスト養成通信講座「TK MUSIC ONLINE」を開始。 Rojamよりネット配信と通信販売により新曲を発表した。 Rojamからはと。 factory ORUMOKからは、、、などがデビュー。 ネット販売とコンビニ販売を視野に入れた両社であったがレコード販売以外はほとんど実現できなかった。 、麻薬・覚醒剤乱用防止活動としてTRF、BALANCeと共に「イェス・トゥ・ライフ東京大会」に参加。 より翌年の、・で「」が開かれた。 、との専属契約を解消し、factory ORUMOKから撤退。 、公式サイト「komuro. com」リニューアル。 、とマネージメント契約を結ぶ。 同日の(吉田麻美)と再婚。 、とともに「」結成、トランス・ミュージックへの傾倒が始まる。 Rojamのレコード販売事業は縮小。 プロデュースクラブ・イベント「」にTRF、BALANCe等と共に、参加・楽曲提供。 、フジテレビ単発テレビドラマ「」の音楽監督を担当(と共同)。 より放送を開始したアニメ「」の音楽監督(、と共同)を担当。 トランス・イベント「」を主催。 「(邦題:)」の音楽監督・主題歌制作を担当。 、吉田麻美と離婚。 しかし、2007年5月17日に権利消滅。 、globeのボーカルKEIKOと再婚。 globeにはのが加入した。 より3年間「」の名誉校長に就任した。 初のピアノ・インストアルバムを3枚発表した。 全米先行放送アニメ(後に2004年10月より日本でも放送)「」の音楽監督を担当。 やの流行などにより、韓国での開催を予定していた対策チャリティライブが中止。 globeにYOSHIKI加入後初の東京ドームライブが中止と、不運が相次いだ。 Rojam株を全て売却し、Rojamの経営から撤退した。 個人スタジオ兼イベント運営会社として「」を新たに設立。 ののスーパーバイザーに就任。 TM NETWORKデビュー20周年を記念してでライブを行った。 日中国交正常化30周年記念ドラマ「」の音楽監督を担当。 8月、の着信音をプロデュースする。 「WA」「ALERT」等を楽曲として配信した。 globe結成10周年を記念して2年半ぶりの全国ツアーを行う。 ツアー中に新曲「judgement」を披露。 、と共に52FにてカウントダウンLIVEを行う。 クラブ・イベント「 Presents 」を開催した。 avexの手掛ける高音質ネット配信の研究機関「」のエグゼクティブアドバイザーに就任。 「 MUSIC HD Sound」にてglobeの楽曲の高音質配信を開始した。 、中国の女優であるに楽曲提供する。 ロサンゼルスを拠点とした活動を再開。 DJ TK名義で運営の「」に楽曲の提供を開始。 、のアトラクション「ポート・オブ・パイレーツ」の音楽を担当。 小室哲哉と吉本芸人がコラボレートを行い「」と題して、11組のお笑い芸人に楽曲を提供した。 、米ロックバンド・のアルバム『Be What It Is』の楽曲「cherokee girl」にシンセサイザーで参加。 、自身のオフィシャルサイトを開設。 、音楽配信を主とした新たなレーベル兼個人スタジオ「」を立ち上げる。 の「with you」をプロデュース。 男性ソロアーティストのプロデュースは自身で9年ぶりとなる。 、芸術情報学部音楽表現学科特任教授に就任。 担当した講義は「新世紀音楽概論」で講義の内容は『印税・の問題』『ヒット曲に共通するタイトル』『日本語の』を展開した。 午前9時の1時限目に月1,2回教壇に立っていた。 著作権を巡る事件(前述)のため同大学は付けで小室哲哉を処分した。 、所属事務所の吉本興業と契約満了。 、DJ TK名義で「」をリリース。 - 、2007に、TM NETWORKとしてライブ出演。 - 、のメイドカフェ「」をジャック。 愛用のギターやキーボードを展示し、店舗を「DJ TK」仕様に改装した。 、音楽プロダクションの制作総指揮に就任。 同月に設立された芸能事務所「」に所属。 からにかけてにて、「TK New Year Live 2008 in Tafukuji Temple」を開催する(この模様はで公式配信された。 、18年ぶりとなるオリジナルアルバム「」を配信限定で全世界同時リリース。 、オリジナルアルバム「」を配信限定で全世界同時リリース。 、「 2008」にkcoと共にゲスト・セレブリティとして出演。 、の新アトラクション「オーロラトリップ」「ヒーリングオーロラ」のサウンドプロデューサーを担当。 、オリジナルアルバム「」を配信限定で全世界同時リリース。 、尚美学園大学にて「SHOBIワンダーランド」のプログラムとしてピアノコンサートを行う。 、オリジナルアルバム「」を配信限定で全世界同時リリース。 、内に住む個人投資家に著作権譲渡の話を持ちかけ、5億円を騙し取った詐欺の容疑で、特捜部に逮捕される。 これを受け、「」は同日付で小室を契約解除した。 、より懲役3年、執行猶予5年の有罪判決が言い渡される。 、個人事務所「」を設立し、エイベックスと専属契約を結んだ。 、『'09』にglobeのメンバーと共にシークレットゲストとして出演、音楽活動を再開。 、クラブイベント『HOUSE NATION』にスペシャルゲストDJとして参加。 - にかけて、再開後初めてのソロコンサートを・・で開催された。 - に提供した『』が発売。 オリコンチャートで初登場1位を獲得する。 - 『』をにて配信。 - 『』をにて配信。 - 14日、のコンサートイベント「意味深3」日本武道館2Days公演にサポートキーボーディストとして出演。 - 『DATV「ほほえみプロジェクト」チャリーティイベント「Message! to Asia」』に、らとともにゲスト出演。 - 国連"Friend's Whistle! " プロジェクトに、、らとともに参加。 小室が制作したテーマソング Always be there を参加アーティスト全員で歌唱した。 - オリジナルアルバム「」をリリース。 - 小室哲哉のヒット曲を集めた『TK BOX 〜TETSUYA KOMURO HIT HISTORY〜』がmu-mo shop限定で発売された。 - オリジナルアルバム「 インストバージョン」を配信開始。 来場者数はのべ14万人以上にものぼり、ネット上で大きな話題となった。 - 『国連UN-OHRLLS・国連の友 "Friend's Whistle! Act for Tomorrow! Vol. 2"』に出演。 THE PREMIUM NIGHT in nicofarre』に出演。 - 『FREEDOMMUNE 0<ZERO>2011』に出演予定だったが暴風雨のため中止される。 - 早朝、中止された『FREEDOMMUNE 0<ZERO>2011』を「今日やらないと意味が無いセットリスト」とのことでスタジオより急遽配信。 - 、 - 「TETSUYA KOMURO 〜Piano Solo Concert〜」を開催。 』に前回のASOBINITEと同じく、と共にゲスト出演。 - globeのボーカルで妻のKCOが24日(月)夕方、自宅で倒れ都内病院に緊急搬送された。 幸運なことに小室が傍にいたため迅速な対応ができた。 翌日はテレビ収録の仕事が入っていた。 医師に『くも膜下出血』と診断され、25日未明より緊急手術を行い無事成功。 その後意識も回復した。 KCOとglobeのホームページには小室のコメントが掲載された。 - 『2011「UBC-jam vol. 25」』に出演。 - 『HARAJUKU PERFORMANCE + DOMMUNE』に出演。 とのトーク&ライヴを開催。 - ボーカルで参加したとともにピアノで参加したの新曲『』がiTunesで配信開始。 - 「キーボードマガジン 2012年4月号 SPRING」に小室が審査を務めるキーボードマガジンコンテストについて掲載。 付録のCDには小室が制作したコンテストの課題曲が収録されている。 - ライヴDVD「」をリリース。 - リミックスアルバム「」をリリース。 - コンピレーションアルバム「」をリリース。 - 『オープニングセレモニー』にゲスト出演。 4月24-25日 - にて『TM NETWORK CONCERT -Incubation Period-』をで開催。 25日公演は日本全国、香港、台湾の映画館にて同時生中継された。 - として約5年ぶりのシングル「」をリリース。 TM NETWORKとして12年ぶりにオリコントップ5にランクイン。 - 小室哲哉のFacebookページとスタッフのTwitterがスタートした。 - 『Keyboard Magazine Festival 2012』に、とともに出演。 シンセサイザーオーディションの課題曲の監修、審査も担当した。 8月3-26日 - 原作・脚本の舞台『ウサニ』の音楽を担当。 - 『FREEDOMMUNE 0<ZERO> A NEW ZERO 2012』に出演。 YouTubeでも生中継で配信され、全体の来場者数は約72万人を記録した。 8月12日 - で行われる音楽イベント『WEEKENDLESS』にm-floのVERBAL、RE:NDZ a. a kz livetune らと共に出演。 TMと縁の深い渋谷公会堂でIncubation Periodの特別版を放映、その後メンバーが登場し、一連の活動について解説をした。 また、未発表の新曲を小室が生でミックスする作業をファンの前で披露した。 - JFN系全国ネット「小室哲哉 Radio Digitalian」がスタート。 3月まで月1回でオンエアされていた「RADIO SESSIONS 小室哲哉 Digitalian」が週1回に変更され、再開する。 - ニッポン放送「オールナイトニッポンモバイル」がスタート。 - ドライブのための音楽ナビゲーションサービス「music Chef」に新しいシェフとして小室哲哉が登場。 小室が影響を受けた音楽や、自身が手がけた楽曲をセレクション。 - フジテレビ系新番組『』にレギュラー出演。 バラエティ番組のレギュラーは初である。 - 小室によるトータルプロデュースでモデルのが「」でメジャーデビュー。 小室が新人をプロデュースするのはFemale non Fiction・R9以来約10年ぶりとなる。 - TRFがシングル全31曲を収録したベスト盤『TRF 20th Anniversary COMPLETE SINGLE BEST』をリリースする。 16年ぶりにプロデュースを手がけた新曲が収録される。 - フジテレビ「みんなのKEIBA」テーマ曲を担当。 タイトルは「Now1 ナウワン 」。 - 雑誌「FRIDAY」にて自身がであることを告白。 薬の副作用と戦いながらも、現在は順調に回復に向かっているとのこと。 - TRFのデビュー日である2月25日に小室哲哉プロデュースによるTRFのミニアルバム「」がリリースされる。 これに伴い「TRF」の表記が92年のデビューから96年まで使用していた小室哲哉プロデュースを象徴する小文字の「trf」に変更にされる。 - GyaO! ライブトークにTRFのYU-KIと共に出演。 - 約2年ぶりのソロアルバム「」がリリース。 最新(EDM)を基調としたアルバムとなり、iTunes総合チャートで1位を獲得した。 - 「Applayersコンテスト FINAL STAGE@ニコファーレ」に審査員として出演。 - 2013年5月25日(土)と26日(日)にさいたまスーパーアリーナにて予定されていた『TM NETWORK FINAL MISSION -START investigation-』がボーカリスト宇都宮隆の体調不良のため、延期されることが発表された。 7月20日-21日 -『TM NETWORK FINAL MISSION -START investigation-』がさいたまスーパーアリーナにて開催され、全国の映画館で同時生中継された。 - フジテレビ系「FNSうたの夏まつり」に出演。 昨年に引き続き、や、などと共演した。 - globeが18周年を迎え、新曲『ホワイトアウト』の制作を開始したことを発表。 - に提供した「」のビデオクリップにゲスト出演。 - 東京ステーションホテルで行われたファッションブランド「LOUIS VUITTON」主催のエキシビジョン「Timeless Muses(時を超えるミューズたち)」展に、らと共に来場。 - リリー・フランキー主催のイベント「ザンジバルナイト2013」に出演。 - リミックスアルバム「」をiTunes Storeで配信。 メンバーは坂本美雨、篠原ともえ、島谷ひとみ、DEEP。 - TOHOシネマズ六本木ヒルズで開催される映画『』 のジャパンプレミアにゲスト出演。 トリビュートミニライブを行う。 - オランダ出身のDJ Afrojackの楽曲『The Spark feat Spree Wilson 』のTetsuya Komuro Remixが配信開始。 - YouTube上で展開する新しい歌番組プロジェクトTOYOTA「WISH presents 白黒歌合戦」のトークセッションにヒャダインことと共に出演。 - フジテレビ「フジテレビ開局55周年記念 音楽特別番組 FNS名曲の祭典」に出演。 - ニンテンドー3DS用ソフト「大合奏!バンドブラザーズP」のプリセット楽曲を提供。 - ヒャダインこととのコラボ楽曲『22世紀への架け橋』がiTunes Store限定で配信開始。 - フジテレビ「2013FNS歌謡祭」に出演。 - YouTube上で生配信されるTOYOTA「WISH presents 白黒歌合戦」プレミアムライブに出演。 - さいたまスーパーアリーナで行ったライブ「TM NETWORK FINAL MISSION -START investigation-」がBlu-ray DiscとDVDで発売。 初回限定盤では、小室のオーディオコメンタリーも収録される。 - Le Baron de Parisにて開催された「Syn City Christmas Ball」にDJとして出演。 - 小室が自宅からスタジオに向かう最中、乗っていた車が交通事故を起こし、頸椎捻挫の軽傷を負った。 これにより翌日に行われるはずだった坂本美雨とのイベントは大事をみて中止となった。 - 小室のソロアルバム『』が発売。 - 小室の交通事故によって延期されたライブイベント「ディア・フレンズ LIVE Vol. 2 welcomes 小室哲哉Supported by あ・う・て」がTOKYO FMホールにて開催。 - 「burn WORLD DJ CONTEST 2014」に小室哲哉がメンターとして参加。 コンテストのファイナリストと対談し、目の前で自らのパフォーマンスを披露した。 - TM NETWORKの39枚目のシングル『』とセルフプロダクトアルバム『』が発売。 -『TM NETWORK LIVE TOUR "the beginning of the end"』が東京・府中の森芸術劇場どりーむホールからスタート。 - 違法ダウンロードの防止を目的とした「STOP! 違法ダウンロード」啓発ビデオクリップに元スケボーキングのSHIGEOと共に参加。 このプロジェクト用に小室が書き下ろした新曲「GOOD CLICK CREATES GOOD MUSIC! 」がYouTubeで公開された。 - 東京プリンとたいせつな仲間たちによる楽曲「明日笑っていられるように」にキーボードで参加。 - 4月2日にリリースした「TETSUYA KOMURO EDM TOKYO」を記念して小室本人がDJとして大阪、名古屋、大分、渋谷のクラブに登場する。 - ダンスミュージックイベント『MUSIC CIRCUS'14』にスティーブ・アオキやVERBALなどと共に出演。 - アフロジャックのアルバム「フォーゲット・ザ・ワールド」日本盤に小室がリミックスを担当した「ザ・スパーク」が収録される。 - ライブ「TETSUYA KOMURO 2014 SPRING[FINAL]」をUstreamで生配信。 前日のラジオで訪れていた沖縄のスタジオで行われた。 - ageHaで行われたAFROJACKのライブにサプライズで登場。 - 音楽授賞式「MTV VIDEO MUSIC AWARDS JAPAN 2014」にゲストセレブリティとして出演。 このイベントに出演するのはおよそ6年ぶりである。 - アソビシステムの人気パーティー「ASOBINITE!!! 」に、、らと出演する。 中田との共演はおよそ3年ぶり。 - ミュージックフェスティバル「THE BIG PARADE 2014」に登場。 スペシャルトークセッションを行う。 ・ - 坂本美雨をフィーチャーした『小室哲哉 featuring 坂本美雨 ビルボードライブ』が9月24日に東京、10月4日に大阪で行われる。 - 「TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30」が神奈川のよこすか芸術劇場からスタート。 - TM NETWORKの前作からおよそ7年ぶりとなるオリジナルアルバム『』がリリース。 - 小室書下ろしのストーリーブック『CAROLの意味』が発売。 世界観に合わせて制作された50分を超えるインスト曲「password」をダウンロードすることができるMUSIC CARDを付属。 - 小室哲哉の公式LINEアカウントがスタート。 - フジテレビ年末恒例特番「2014FNS歌謡祭」に出演。 - ファンクラブ限定イベントTM NETWORK 30th ANNIVERSARY FANKS PARTYがホテル日航東京にて開催。 - 全国映画館にて「TM NETWORK THE MOVIE 1984〜 30th ANNIVERSARY」が上映開始。 ・ - アリーナ公演「TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30 HUGE DATA」がさいたまスーパーアリーナにて開催。 ・ - アリーナ公演「TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30 HUGE DATA」が神戸ワールド記念ホールで開催。 ・ - アリーナ公演「TM NETWORK 30th FINAL」が横浜アリーナにて開催。 劇伴とキャラクターソングを手がけた。 - ニッポン放送にて「TM NETWORKのオールナイトニッポン」が放送。 - 会場限定CDだった『』に「Just Like Paradise 2015」が追加されてiTunes、mora、e-onkyoなどで配信開始。 5月14日 - 17日 - 小室哲哉のDJイベント「〜globe 20th〜」が名古屋・広島・神戸・大阪にて開催。 - 「小室哲哉feat. 坂本美雨アコースティックライヴ」が熊本・八千代座で開催。 - 「パンチライン」オリジナルサウンドトラックが発売。 - アトラスより発売されるPS Vita用ゲーム『』に楽曲アレンジで参加。 Blu-ray2枚組の豪華盤のDisc2には、2014年12月に国際フォーラムで開催された「QUIT30」公演を収録。 - globeの楽曲のアレンジを再構築した2枚組アルバム『』をリリース。 - 「globe 20th anniversary special event」が新宿ステーションスクエアで開催され、小室・マークによるライブ・DJパフォーマンスが披露された。 - tofubeatsの2ndアルバム『』に参加。 - 上海の音楽芸術向上への貢献が称えられ、上海国際芸術祭青年創想週間組織委員会から「金融総裁班特別芸術顧問賞」と「上海国際芸術祭青年創想特別貢献賞」が授与される。 - 競馬エンターティンメントサイト「umabi. jp」のテーマソングを小室哲哉、 、tofubeatsとの3者で結成された新ユニット『TK feat. TK』が担当。 - TeddyLoidの約1年3ケ月ぶりとなるオリジナル2nd Albumに小室哲哉が参加。 - 香川、愛知、東京、福岡、大阪の5か所で行われるピアノコンサート『小室哲哉PIANO BIOGRAPHY』がスタート。 ギタリストに葛城哲哉を迎えて演奏された。 また、東京公演ではボーカリストとしてが参加。 - globe20周年プロダクト第2弾としてトリビュートアルバム『』を発売。 、、、などが参加するほか、小室哲哉自身もプロデュース・アレンジで参加。 - 小室哲哉feat. - TM NETWORKのアルバム『』のハイレゾ版が配信開始。 - 新木場agehaにて開催されたASOBINITE!!! に出演。 - 『 globe20th -SPECIAL COVER BEST-』と『DEBF EDM 2013 SUMMER』のハイレゾ版が配信開始。 - とのコラボ企画「小室哲哉 feat. スッキリ応援歌メーカー」がweb上にてスタート。 - 4月9日 土 に開催を予定していた「小室哲哉 PIANO BIOGRAPHY feat. 坂本美雨」台北「ATT SHOW BOX」公演が小室哲哉の右足関節骨折のため、急遽延期されることが発表された。 - NHK BSプレミアム「J-MELO」オープニングテーマとして小室哲哉とが初コラボした楽曲『』がitunesやmora等で配信開始。 歌唱はMay J. が担当。 - J SPORTS プレミアリーグ中継エンディングテーマ「a new lease on life」が配信開始。 - 茨城・筑波大学にて音楽とテクノロジーを融合させたイベント「J-WAVE INNOVATION WORLD FESTA 2016」にDJスタイルで出演。 - 小室哲哉がMCをつとめるネット音楽番組「TK MUSIC FRESH! by AWA」の月イチレギュラーがAbema TVで放送開始。 - 株式会社DMM. comが運営する会員制オンラインサロンサービス「DMM Lounge(ラウンジ)」にて、小室哲哉による「TK Culture Gathering」が公開。 - Amazonプライム・ビデオにて配信開始されたのドキュメンタリー作品『Invisible TOKYO』に出演。 - 『Tetsuya Komuro Interviews Complete from 1984 to 2014』がAmazonで発売。 7月14 - 16日 - 名古屋・神戸・京都・大阪のクラブにてDJとして出演。 - globeの楽曲のアレンジを再構築したRemodeシリーズ第2弾『』がリリース。 - 第13回東京国際ミュージック・マーケット、ビジネス・セミナーのスピーカーに出演。 - 「坂崎幸之助の第2回ももいろフォーク村デラックス」に木根尚登、MARC PANTHERと共に出演。 - 20周年最終日を迎えるglobeが、8月8日に六本木ニコファーレにてイベントを急きょ開催。 ゲストボーカルはが担当。 - ので開かれる「」で、脇田玲と小室がオーディオビジュアルインスタレーションを発表。 - がレジデントを務めるフェス" OTONOKO[オトノコ]"に出演。 - "VISION5th Anniversary presents track maker" にDJとして出演。 - 北九州市で開催された東京ガールズコレクションの公式アフターパーティー『もみ処癒し屋 Presents TGC Night KITAKYUSHU 2016』にDJで出演。 - デザイン・チームのサイモン・テイラーがオーガナイズし、ケミカル・ブラザーズがヘッドライナーとして出演する「Rockwell SirKus 2016 」に出演。 - 札幌「KING XMHU」に DJとして出演。 - シンガーソングライターの大森靖子へ楽曲提供した『POSITIVE STRESS』が発売。 - 日本初となる写真と映像のアートフェア「ART PHOTO TOKYO — edition zero —」に出演。 - 府中の魅力を市内外に発信し、観光などの振興に資するための「東京多摩振興 特命 武蔵国府中大使」に小室哲哉が任命された。 - - 毎年恒例となった『小室哲哉PIANO BIOGRAPHY feat. 坂本美雨』が2016年も開催。 - エイベックス・グループの障がい者スポーツ支援事業「avex challenged athletes」が、障がい者スポーツの認知・普及を目的に作成したプロモーション映像に、新曲「one more run」を提供。 - 約3年ぶりのソロアルバム『』が発売。 - H Jungle With tのヒット曲『WOW WAR TONIGHT』のアナログ盤が7インチでリリース。 - TM NETWORKの代表曲の発売30周年記念アルバム「GET WILD SONG MAFIA」が発売。 - H Jungle With tの2ndシングル「GOING GOING HOME」が、RECORD STORE DAY限定盤アナログとして発売。 - 音楽とテクノロジーを融合させたイベント「INNOVATION WORLD FESTA 2017」に2016年に引き続き出演。 - アルバム『GET WILD SONG MAFIA』収録曲「GET WILD 2017 TK REMIX」と石野卓球(電気グルーヴ)が手掛けたアルバム未収録バージョン「GET WILD(Takkyu Ishino Latino Remix)」がアナログレコードで発売。 - - 府中市市民活動センター「プラッツ」に新たに建設された多目的ホール「バルトホール」のオープン記念イベント「けやきの森のハーモニー」の監修を務める。 - との音楽ユニット「PANDORA」を結成。 - - 超ドSの特任大使に就任、野外ライブイベントの出演アーティストの選出・ステージの設計等の演出全般に企画段階から関わった。 - PLAYCOOL CAMPにZeebraと共に講師として出演。 - 日本科学未来館にて開催された『MUTEK 2017』に慶應義塾大学教授 脇田玲と共に出演。 インスタレーションライブパフォーマンスを行った。 - のベストアルバム、『』に収録された新曲、「How do you feel now? 」をプロデュース。 ミュージックビデオでは、再会を果たすシーンが描かれている。 - 品川インターシティホールで行われる木根尚登のソロデビュー25周年記念ライブ「キネバラ」にゲスト出演。 - 音楽活動からの引退を表明。 - との音楽ユニット「」が、ゲストボーカルにを迎えた1st シングル『Be the one』をリリース。 ・ - PANDORA初のワンマンライブ『PANDORA 2018 Billboard Live』が東京・大阪で行われる。 ピアノ・シンセサイザーを駆使して制作したを建築・芸術関係の企業に向けて提供する仕事を、自身の名前を出さずにお忍びで始めることでミュージシャンとしての制作活動を再開する。 - にて開催された「双葉郡中高生交流会 FUTABA 1 DAY SUMMER SCHOOL」のにて、のオファーで音楽家として、ボランティアの講師を務めた。 公的なイベントに出演するのは1年半ぶりである。 小室哲哉が楽曲提供、プロデュースした楽曲の一覧については「」を参照 レコード会社は以下の表記とする。 EP …• EM …• AV …• AN …• SR …• SA …• F …• BW …• M …• G …• T …• If you like it or not M 「DJ TK」名義、ラップ・kco。 Buddha Bar M 「DJ TK」名義。 M 「DJ TK」名義、佐野元春のヒット曲のリミックス。 後にiTunes Storeで世界同時配信される。 M 「DJ TK」名義、自身の楽曲のセルフカバー。 ボーカルはkco。 M 「DJ TK」名義、佐野元春のヒット曲のリミックス。 inst版も同時配信。 M 「DJ TK」名義、ウルフルズのヒット曲のリミックス。 AV ソロアルバム「DEBF3」から先行配信。 「」テーマソング。 AV 「DEBF3」のプレオーダーのスタートと同時に先行配信。 Blue Ocean AV 「」エンディングテーマ。 GET WILD 2017 TK REMIX AV 「GET WILD」30周年の幕開けとして小室が新たにリミックスした。 コラボレーション作品 タイトル 発売日 レーベル 備考(タイアップ等) EP 「 」名義。 のとのコラボ。 アメリカのとのコラボ。 SA 「 Tetsuya Komuro Featuring. M」名義。 アメリカのY. Mとのコラボ。 Embryo BW 「 Lifecell」名義。 ベルギーのDJ PUSHとのコラボ。 22世紀への架け橋 AV 「 小室哲哉VSヒャダイン」名義。 (ヒャダイン)とのコラボ。 iTunes Store限定で配信。 RUN(ハッシュラン) AV 「 小室哲哉 feat. ユニット名: TK feat. TK Have Dreams! May J. 」名義。 、とのコラボ。 ソロアルバム オリジナルソロアルバム タイトル 発売日 レーベル 備考 1st EP シンクラビアを多用し、全曲小室自身がリードボーカルを務めている。 - EP セルフカバー・アルバム 2nd AV 全世界同時発売 6月1日にはiTunes Store限定でインスト版が配信された。 3rd AV EDMを基調としたアルバム。 DOMMUNEのライブ音源も収録される。 4th AV セルフリミックス音源に加えてゲストボーカリストをフィーチャリングした新曲が収録される。 5th AV 小室の近年のソロワーク音源を集めた新シリーズ「JOBS」の第1弾。 アーティストらとのコラボ曲や、番組テーマソング、CMタイアップソング、サウンドインスタレーションなどで構成される。 アルバムは初回限定盤と通常盤の2形態。 初回限定盤にはミュージックビデオやライブ映像を収めたDVDと、小室のオリジナルインタビューとオフショット写真が100ページにわたり掲載されるフォトブックが付属する。 Far Eastern Windシリーズ タイトル 発売日 レーベル 備考 1st T ・ SY iTunes Storeにて世界同時配信 2nd T ・ SY iTunes Storeにて世界同時配信 3rd T ・ SY iTunes Storeにて世界同時配信 4th T ・ SY iTunes Storeにて世界同時配信 Far Eastern Wind -Complete- AV シリーズ全てがデジタルリマスタリングされCD盤で発売。 1曲73分に及ぶ新曲『五常』が収録されている。 サウンドトラック• 1994年 「」• 1995年 ドラマ「」• 1998年 ドラマ「」• 2004年 中国映画「恋愛中的宝貝(邦題:恋愛中のベイビー)• 2004年 テレビアニメ「」• 2018年 「ガーディアンズ」• 1 Y 限定販売 4th vol. 2 Y 限定販売 5th TETSUYA KOMURO Special Live DOMMUNE TK Presents BROADJ 332 Disc. Maric」名義 - SA 限定BOX - AV - Y - Y - うみね 「ホテルうみね」館内BGM 「ホテルうみね」限定発売 オムニバス タイトル 発売日 レーベル 備考 1st E クラシック・セレクション 2nd AV 3rd AV 4th G 5th AV 6th TK INSTRUMENTAL WORKS SELECTION 1986〜2003 G 7th TETSUYA KOMURO CELEBRITY PLAYLIST 8th AV 9th AV 10th AV 11th AV ビデオ・DVD• 1989年 Digitalian is eating breakfast• 1996年 tk-trap(1月19日 - 20日に幕張メッセで行われた2日間限定のライブを収めたビデオ)• 1979年 『』• 1979年 『』 (「 Digital "Cheap" Snake」名義)• 1980年 あのねのね 『』• 1981年 『』• 1981年 白竜 『』• 1982年 『』• 1983年 『』• 1984年 『』(一部アレンジャーとしても参加)• 1987年 『』• 1988年 『』(『Play It So Loud』を担当)• 1989年 『』• 1992年 『』(『Decolage』、『Rhythm Of Life』、『CON ANIMA』を担当、としても参加)• 1994年 『』(『CRY』を担当)• 2006年 『』 (『cherokee girl』を担当)• 2012年 『Hope』• 2014年 『』 この節のが望まれています。 ゲスト出演等は省略。 1989• 1991• TK TRACKS NIGHT 1991• 1992 - 1993• 1995• 1995• 1995• イエス・トゥー・ライフ dance alive 1996• TK Trillion Net 1996• 1997• 1997• グアム大夏祭 1998• グアムアートイルミネーション 1998• 1998• GOA IN BALI 1998• 2000 - 2001• 2002• Presents 2005• 2007 - 2008• TETSUYA KOMURO 〜Piano Solo Concert〜 2011• presents バルトホールオープン記念プレミアムウィーク 「けやきの森のハーモニー」 2017• 超ドS 2017 公式書籍• 1988年 Vis Age TETSUYA KOMURO PERSONAL VISUAL BOOK(子供の頃の写真とともに、自らが詳しく生い立ちを語ったヒストリーと、PWLのマット・エイトケンとの対談他を収めた自伝写真集)• 1989年 Digitalian is eating breakfast(ソロアルバム制作後のインタビューと楽譜を収めた本)• 1990年 音を生け捕る - 映画「天と地と」音楽監督NOTE(自身の曲解説が収録されている本)• 1992年 HIT FACTORY(マイアミで行われたソロセカンドアルバムの制作風景と、プライベート写真集)• 1993年 TK EOS FACTORY 小室哲哉のシンセ工房• 1993年 告白は踊る(東京をコンセプトに、自身の哲学や、これまでの仕事を振り返ったエッセイ)• 1995年 With t - 小室哲哉音楽対論 Vol. 1〜Vol. 2(音楽番組「」の対談を活字に起こした本)• 1996年 With t - 小室哲哉音楽対論 Vol. 3〜Vol. 5( 、、、、など多数登場)• 2003年 VOICE OF WORDS(小室哲哉が書いた詞をセレクトした歌詞集)• 2009年 罪と音楽(絶頂期から2009年時点、未来をテーマにした書き下ろしエッセイ)• 2014年 CAROLの意味(小室書き下ろしのストーリーブック。 この世界観を表現したインスト楽曲『password』をダウンロードすることができるミュージックカードが付属。 2016年 時代をつかみとる思考(『未来志向』をテーマにしたエッセイ、限定販売) 関連書籍• (小室哲哉が主人公の漫画コミックス。 小室哲哉黙認で、1999年2月〜2000年1月まで、にて連載された。 (1989年発売 用ソフト)• テレビ• (、1995年4月12日 - 1996年5月8日)• TK NEWS -小室魔力-(、1997年8月 - 1998年1月)• KOMU COM(フジテレビ、1997年4月11日 - 1998年3月28日)• TK SPARK COM(フジテレビ、1998年4月15日 - 1998年9月23日)• radio TK(フジテレビ、2001年4月 - 2001年9月)• club TK(、2001年4月 - 2001年9月)• (、2001年10月2日 - 2002年3月26日)• Tribal kicks TV(、2004年10月 - 2004年12月)• (フジテレビ、2012年10月21日 - 2013年3月24日) こむろさん役 ラジオ• 小室哲哉の(、1986年10月 - 1988年3月)• Sounds with Coke TM NETWORK Come on FANKS! (、4月 - 1990年?)• 小室哲哉の(、1998年7月2日)• (、2000年4月6日 - 2001年9月27日)• 「小室哲哉 Digitalian」(系列、2011年1月 - 2012年3月)毎月第4週担当• (第2期)(JFN系列、2012年10月1日 - 2014年3月26日)• (ニッポン放送、2012年10月3日 - )• 、2020年6月12日 雑誌連載• KEYBOARD MANUAL(、1984年1月号 - 1984年12月号)• キラキラ掲示板(、1984年10月号 - 1985年10月号)• キーボード講座(、1985年8月号 - 1987年7月号)• ELECTRIC PROPHET(、1985年11月号 - 1986年1月号、SF小説)• ART OF LIFE(、1991年6月号 - 1994年1月号)• TK MUSIC CLAMP(PATi PATi、1995年6月号 - 1998年5月号、雑誌編集版)• 小室哲哉のネットパラダイス(、1996年10月25日号 - 1997年2月25日号・1997年4月25日号)• 小室哲哉通信(、1998年2月号 - 2000年12月号)• TETSUYAをさがせ!! (、2000年8月号 - 2001年4月号)• 小室マニュアル2001(ザッピィ、2001年6月号 - 2002年3月号)• TK Future Lab(日本版、2016年8月号 - ) 音楽性 作風 ・・・・・・・・・・・、果ては・・・・・・等幅広いジャンルを使い分け、かつ、 音楽を手掛けることを得意とする。 ただ、一般には邦楽ダンスミュージックの第一人者・の、又はそれにおける・の概念・の普及の立役者として知られる。 作風の大きな特徴として「最高音の独特な使い方 」「狭い音域を限定したメロディ作り」「1〜2小節のメロディの繰り返し」「作詞の譜割りがゆっくりになったり早くなったりする」「息継ぎできる部分が全くないパートがある」「少ない構成パート」「唐突な が多い」など分かり易いインパクトを持ち、かつジェットコースターのような緩急のメリハリがある展開が挙げられる。 の独自の演出として、手で直接元々繰り返されているリズムをサンプリングして、さらにループさせるように打ち込む。 それにより「キック・ハイハットをコンピューターでシンクロさせている」かのように聴こえるようにしている。 それ故に、時々楽曲の音色が自分で弾いた音なのか、元々シンセサイザーに内蔵されている既存のプリセット音か分からない程に自分に染み付いている。 使っている音色自体はシンセサイザーのプリセット音の中で大体決まっている。 音色・音圧より、ほとんどの場合鳴った瞬間から音色が減衰して、次につながるまでのタイミングで決める。 小室は「それを意識するかどうかで音楽としてのグルーヴ感が出るか、ただの工事現場の音になるかが決まる」という。 基本は「4分音符で1小節に4つキックを入れて、その裏に8分音符で1小節に8つハイハットを重ねる」こととしている。 では「8分の6拍子」を「三連符の割り切れない切なさが絶対的なグルーヴの揺れを生むので、大事な引き出しの一個」と語っている(例:「Smile Again」、篠原涼子「」、globe「」)。 シングルをプロデュースする際は、1曲目がオリジナルで2曲目・あるいはアナログ盤にオリジナルのリミックスバージョンを入れるのが基本構成である。 クラブ等通常のかける場所とは違うシーンでかかることを想定しながらリミックスバージョンを作り、最新の音色・メロディ・アレンジに対する反応を確かめて、反応がいいときはすぐに次のデモテープに活かす。 リミックスバージョンを制作する際には「どの楽器を前面に出すか」「どれだけ踊れるような構成にするか」という気持ち良さを重視し 、そのためにの制作ノウハウを踏襲している。 アルバム制作に発展させたい場合には、基本構成は1990年代までは通しで聴くことを前提に、1曲目と最後の曲目に注意を払うようにしていたが、2000年代以降はインターネットで試聴する1曲で印象が決まってしまうので、その1曲毎に芸術として勝負できるように心がけている。 制作方法はシングル用の楽曲制作の時点でコンセプトを煮詰めた後に時間をかけるか、プライベートで商業上の制約を一旦抜きにして好き勝手に曲を作りそれを商業向けに手直しするかのどちらかを選ぶ。 後者の一例としてTM「」 「」 ・trf「」 ・globe「」 「」 ・ソロ「」 が挙げられる。 曲に入り込ませるためのフックとして、都会の雑踏の音・信号機の音・携帯電話の受信音・臨時ニュースの発信音等、日常で人間がコンマ数秒で反応する音を機械音を中心に使用している。 転調 手癖ともいえる程に転調を多用するようになったきっかけは、TM NETWORKの1stアルバム「」のレコーディングの時、ソフトのバグでシーケンサーに誤動作が生じた。 その勝手に音調が変化し転調してしまった音源を聞き、小室が「意外と気持ちいい」と感じたことがきっかけとなり、以後の制作活動でそのフレーズが定着した。 ちなみにこの時の現象を小室は「さん・さんが作るような『歌謡曲的な転調』『キーが変わると、世界観は変わるが、歌の音域が変わらない』作り方が分かった」「これらの転調は適当ではなく理論的に説明が付く」と話している。 反面、発見したその後も意識的に挿入していたわけではなく、むしろ「曲作りで行き詰ったときに使う逃げ」「2曲を1曲にまとめるときに役立つけど、先に転調すること前提で考えずに最後の手段としている」 「コンピューターの誤作動による偶然の産物であり、中々思うように表現できなかった」「サンプラーが今のようにができなくてそのままの音でキーを変えられなかった。 そのサンプラーの音を使いたいがために機械的に転調させていた。 逆のパターンもあって転調した後にそれまで使っていたサンプラーのボイスが無くなっていてボイスのキーと合わせられなくなった」と必ずしも好意的に捉えてはおらず、その後も如何に自由自在に使いこなすかの試行錯誤に腐心していた。 自らの行う転調のやり方について、「これだけ多くの音楽が氾濫している中で、曲にどうインパクトを持たせて、『もう一度聴きたい』と思わせるかという所で転調を理論的に取り入れている」 「コーラスのリフレインは4~8回はやるでしょ。 そのときに転調して一瞬緊張感を持たせる」 「どこでキーが変わっているのか・どこがでどこがブリッジなのかを分からないようにする」 「声が張るピーク・一番伸びる部分をサビに持っていくため。 サビに合わせるとほかのパートが低くなりすぎるため、仕方なく4度転調とか、そういう変な転調を無理やり入れる」「周囲からは『サビでいきなり転調するよね』って言われがちだが、サビが先にあって、その前のBメロで転調しておく」 「KCO・安室さん・華原さんは声が出るから転調無しの構成でも大丈夫だった」 「お互いのキーの共通コードをつないで転調する。 そうすると突然転調した感じが薄れ、スムーズな感じになる」「王道としては、サビの繰り返しで半音キーを上げて高揚感を出す。 共通のコードは無いけどメロディを繰り返すことで頭にそのメロディが残る」「ブリッジで転調しておくと、その後自分の演奏テクニックを披露する等やりたいことが自由にできる展開になる」と話している。 小室の思う転調は一時的に少し調が変わって、落ち着こうとする前にすぐ元の調に戻る「 経過的転調」と転調してしばらくはそのキーのままで演奏される「 確定的転調」に分かれている。 前者は「一瞬ハ長調からヘ長調に移って、すぐハ長調に戻るもの。 ロックではもう当たり前。 突き詰めると段々下がるだけのパターンもそれ」と語っている。 後者は「イントロ・サビ等のパートの区別がはっきりできる。 インパクトをつけて、急に華やかになったり、暗くなったりと色々変化をつけれる」「曲の後半辺りでリフレインに飽きてきた頃に転調すると、同じリフレインでも再び緊張感を持たせられる」「ボーカリストに合わせてメロディーを無理に変えたり、曲全体のキーを低くしなくても、元来のメロディーラインを残せる」「間奏でソロが弾きやすいキーに変更すると、それがまた曲をスリリングにできる」と語り、その思想を基に突拍子も無い調にずらした曲をたくさん作っている。 作詞 作詞を始めたきっかけは10代の頃に聞いていたロックミュージシャンが皆自分で作詞していたから、それに小室が続いた形で作詞家としてのキャリアをスタートさせた。 19歳の時には小室が木根の楽曲に歌詞をつけたり、他のバンドに歌詞だけを提供していた。 1986年にから「歌詞は多く説明し過ぎちゃダメだ。 具体的じゃない方がいいよ」とアドバイスされたことから、「音楽は絵と違って、時間軸があって必ず時間が経過していき、止まって感じることができないことで楽しめる芸術」と悟り 、「がに対して歌っているような『明らかに誰に対して歌っているのか』が分かる作り方」とは対極的な 人称・シチュエーションがはっきりとしている設定を作らず、「私に当てはまる」と感情移入できるように曖昧さや抽象的な隙間のある部分を敢えて残す形で「糊代」を意識的に作る演出を基本としている。 それまでは、起承転結のあるストーリーを作ってそれを底辺に構築していたが、インターネットを使用するようになってからは、ホームページのグラフィックを眺めている内にイメージが湧いたものを散りばめて、そこからさらにイメージを持たせていくというの書き方に近い方法論で書くようになっていく。 小室は「1行目と2行目は全然脈絡はないけど、僕の中ではで無意識でリンクを辿るように、何かがキーワードになっている。 そして、僕でもいつの間にか『どうしてここへ来たのか? 』と疑問に思うことがある。 だけど、そこは意識しなくても何らかの意思があると思いながら詞を書いた」と話している。 その際、実際に行間を埋めるために自らネットサーフィンを行い、そのときに楽しむビジュアルが決定的に小室の感覚に影響し、純粋なストレス解消にもなった。 世界観は「人生」「現実」「常識」「立派」「正直」「公園」を意図的かつ潜在的に散りばめ、閉鎖的な言葉遣いを排除し「『幸せの価値観』というレールから外れて、悩んでいる不良性を持つ子が喧騒から『走る』『逃げる』『動き回る』『内面を吐き出す』形で現実と立ち向かう」展開方法が多い。 マスコミ関係者・ファンから「どうしてそこまで10代・女性の気持ちが分かるのか」「globeの歌詞や世界観に憧れた」と沢山の反響を受けた。 自身のポリシーとしては「『音の中に言葉があるはず』という感じで、メロディーの響きといいたいことの接点を見つけ、それらをコラージュしていく」 「の賞賛ではなく、スポーツ・勉強・遊び・ダンス・DJ・ソングライティングをひたすら真面目に取り組む若者のストイックな格好良さを、時代と向き合うの新たな存在意義にしたい。 だからリスナーに対する責任は重く、歌詞には長めに2週間は時間をかけている」 「『勇気』1つにしても、言葉をそのまま使うと一気に説教臭くなってしまう。 代わりにコード進行・リズム・楽器を慎重に選択したメロディで言葉をシンボリック化している」 「10代が必ず通らねばならない道と対峙したときに、誰かに言ってほしい言葉に結果的になっていた」 「女の子が女の子に『貴女だって可愛いんだから頑張ろうよ』という感じだった」 「コンセプトのベースが恋愛でも友情でも、つかめそうでつかめないギリギリの鋭い感覚がある部分を描く」 「提供した時点でその人のものになれるようにしている。 globeでは特にそれを意識している」 「歌手の姿形・声をが持つ匿名性と解釈して担保し、それを通して自分の理想とする女性像を試行錯誤しながらも、純粋に照れを抜きに書いていた気がする」 「『でも』『だから』『じゃあ』等のを使って、言葉に対してリズムを作っている」 「女性目線の歌詞を書くときは、女性は常に上から目線のキャラクター」 「1人の女性の全く見えない孤独・葛藤を歌詞にしてきたつもりです」 「常に長所・短所両面の揺れを書いている。 そこに男女の垣根は関係ない」 「完全に自分の1人称で歌ってもらえるのはTM・TRF・globeだけ」 「『自分はこれが言いたかったんだ』『こういう思いで生きてるんだ』と入れるのではなく、社会への投げかけを意識しています。 『こういう風に思いますよね? 』という、常に『isn't it? 』だったり、『don't you? 』が最後に付く」 と回答している。 反面「」というの表現や、詞の文法がおかしいなどの指摘があるが 、小室は「具体的な言葉の表現は苦手で、『宇宙』と書いて『そら』と読ませる」 「文法上のことはあまり考えず、曲のイメージ・16ビートのリズム・メロディにアクセントがぴったり合う英語を選ぶ。 そうすれば『かっこ悪い』といわれる部分も自然と省ける」(一部要約) 「ごり押しではあるが、サビの印象的な部分に簡単で記号的な英語を入れる、ボタン一つで他国語に切り替えたり、英訳を表示する等、海外の方々への日本語の意味の伝え方はテクノロジーで克服できる。 必ずしも全編他国語で作詞しなければいけないわけではない」 「作為的な言葉は全く考えず、自然発生的な言葉を中心に入れている」 「日本人が聞いて言いやすい、分かりやすい英語を求めていました。 文法よりキャッチーであること優先。 洋画の原題が邦題になるときと同じように、『ちょっと格好悪いかな』って位まで分かりやすくするために何回も書き直してました」 と発言している。 作詞の手法においては ・ ・ ・ に影響を受けた。 実際に作詞作業を行う際は基本は三部構成で行われ、• Aメロ「物語の設定の説明」「友達といる時の強い自分」• Bメロ「昔のことを振り返り、自分達の状況・風景・環境を説明」「一人の時の心に浮かぶ本音のような弱い部分」• サビ「相手に一番伝えたいことを伝える」 をそれぞれに振り分けて担当させている。 を確かめるために、は使わずに全部ペンを持ってメモに手書きで直接1行ずつ書いたり消したりして徐々に完成させていく。 いい言葉がメロディ程の尺のパラグラフで出てきたときには、それを優先する。 降って湧いてきた言葉に対してメロディラインを変えるのも自由になり、バックトラックも別の素材に操作できる。 これは作詞・作曲・編曲の三位一体をほぼ小室1人で処理できるからやれることでもあるが「この詞を使いたいんだけど譜割りが合わない」「音程が上がってるからこの単語は使えない」という苦労はないという。 1984年からの表現について試行錯誤してきた。 ラップはメロディを書かずにラップ詞の譜割りをすればいいから負担が減る分、ラップパートにメロディと同じ力・重さを持たせるかに悩み、ラップ中心の作品では歌詞が普段以上に長くなる。 モチーフを探すための手段としては、基本は「わけが分からないけど、インスパイアされる部分が多くて面白い」と敬愛している・の作品群を読み込んでいる。 インターネットを使用するようになってからは、ブランドのホームページの写真を眺めながら書くことが多くなった。 特にを重要なモチーフとして好んでいた。 globe「」を制作して以来はや等の1970年代の作詞の傾向を小室なりに再考・別解釈して表現するようになる。 作曲 小室が作曲をする際、アマチュア時代はライブハウス・学園祭・コンテストではギタリストやドラマーが主役だったために「如何に自分の音が目立つか」だけを考えていたが、プロデビューして業界人と接するようになってからは「ボーカルを如何に目立たせるか」を考えるようになり、「この音色・パートは歌を強調させる個所とぶつかるから避けよう」等歌に合わない演奏はどんどん削っていくようになった。 当時「ドラムやギターがリズムを縦に切って、キーボードが横に流れる」のが主流だった中、「ギターが最初から無い状態で、基本はどうするか」という発想から始めた。 「ギターの役目をキーボードが如何にやっていくか」を考えたが、リズムを支えたいのに自然に横軸になってしまう等、どっちつかずになってしまう所の克服に苦労した。 後にとの使い分けで音色の差別化を図ることで解決することができた。 バックトラックを作ってから、ボーカル用のメロディを考えるのを基本にし「ボーカル・コーラスもハーモニー・コード進行の一部と考えた上で、如何にトータルでサウンドを引き立たせるか? 」という方針を「」制作を切っ掛けに常に考えていった。 そうしていく内に次第に「ダンサブルで言葉の情報量の多い楽曲作り」を志向し、「1拍半・半拍半で符点を付けて、でつなげ、さらに16ビートをつけて、その縦軸の中に完璧なコード進行を入れて、最後に歌詞を詰め込むことで、前に進もうとする推進力を付ける」という手法を開発した。 小室はその手法が自身の本質と合うことを自覚したのは、1989年のことである。 同時に音色・リズムは強くしてないと生理的に受け付けなり 、スウィングの仕方も40通り持つようになり、1個毎に全ての触れ幅が異なっている。 自分の属するユニットの楽曲を作る場合は最初に「このジャンルを作りたい」と思ったら、もうその雰囲気で適当に弾き語り、出来上がった曲のことは軽く覚えておく程度にして、しばらく放っておく。 そして、もし覚えていて格好よければそれを譜面にするか、録音する。 覚えていて弾けても、その前に作ったときのインパクトがもう消えていたら、没にする。 そして楽曲自体忘れていたら、「仕方がない、もしかしたら思い出す」と割り切る。 似た作り方で、曲の構成上、歌い出しの部分だけ昔作ったものを思い出してサビの部分を新しく考える・サビだけ出来上がっていて、頭に常に置いておき、ある日それに合うイントロ等が出来ると急に引っ張り出すこともある。 作った時代が、歌の場所によっていろいろあるといった感じのものも多い。 依頼された楽曲を作る場合は制約・締切があるから、今までのストックを基にして無理矢理作る。 そして、ディレクターやプロデューサーにその楽曲を聴かせないといけないので、必ず「曲デモ」と称されるデモテープを作る。 依頼された場合は、よほど制約が緩くない限りは勝手ができないため1回〜3回は、手直しがある。 1番最初は7割程度の出来で聴かせて、2回目に全力を出して作るパターンが多い。 クレームに対しては「むしろ、ないと僕がオファーを受けた甲斐がない」と寛容な態度を示しているが 、どうしてもダメ出しをされたくない場合の対策として、わざと締切日ギリギリまで作らずに周囲がいても立ってもいられない心境にさせて、別の場所で1時間程で仕上げることもある。 1曲作るのに没になること前提のそれぞれの微調整されたパート違いも含まれる8〜10通りのバージョンを用意しに臨んでいた。 発売前に各媒体で流してリスナーの反応に耳を傾け、手直しを行うこともある。 1990年代から依頼と注文に応えること前提の楽曲制作が格段に多くなったこともあり、それ故に「起きたら突然、降って舞い降りた・湧き出てきた・何かに導かれたように自分が閃めいたメロディだけで、周囲の介入なし・試行錯誤なし・実験性満載・楽器と向かい合ったら短時間で楽しく作れて、弾き直しも1回もなく、コンペティションもスムーズに通った楽曲」として 、• TM NETWORK「」 「」 「」 「」 「」• ソロ「」 、「」 、「シリーズ」• 木根尚登「」「」• trf「」• globe「」 「」「」 「」 「」 「」 「」 「」 「」• Kiss Destination「」• 安室奈美恵「」• 華原朋美「」 「」 「」• 鈴木あみ「」• 松田聖子「」 を挙げているが「本来そのような楽曲が出来上がるのは数年に1回あるかどうかであり 、そこから『誰に歌ってもらって、どのように宣伝するのか』も考えなければいけないため、最初に一瞬で湧き上がったときのテンションを維持するのは難しい 」「35年やっているけど、1発OKはない」 と答えている。 基本的な制作工程としては、• 自宅に併設した簡易的な設備を施したスタジオでベーシックとなる大まかなパート別のバックトラック・音色を作る。 本格的な仕上げに入るために、貸しスタジオを予約する。 昼過ぎにコンセプト・音色の打ち合わせを行う。 夕方16~17時、遅くとも深夜にはマーケティング方面のアイディアを頭に入れつつも 、メロディが全く思いついていない状態でスタジオに入り「この人に提供しよう」「このイントロ・コード進行・アウトロ・・音色でいこう」と決める。 既存のシンセサイザーに内蔵されている音色を、マニピュレーターと相談しながらさらに編集する。 構想にフィットしそうなリズムパターンをで制作する。 リズムパターンに合わせて全体の構成やコード進行を考える。 起承転結の通っているを作らずに、思いついたを次々に作っていく。 その内に溜まった音源データを聴いて、「音色が格好良い」と思ったフレーズにメロディを足していく。 おおまかな構成ができ上がったら仮コードを手弾きで、またはコンピューターに打ち込んだメインのバッキングトラック、あるいは小室の知っている曲や自分で既に制作した曲を歌った鼻歌を、を行わずに「ライヴでギタリストがアドリブのギターソロを弾く」感覚で録音してしまう。 録音した音源を再生しながら、ベースのフレーズを考えつつ、それをに打ち込む。 それぞれのシンセサイザーの担当するパート・クリック音・リズムのデータを入力し終えたら、細部を詰め、細かい音色を決めて全て録音してしまう。 この段階での音源はほぼに近いものとなり、それをそのまま活かす形で「音色・シーケンサーのデータを作り直しただけで完成させるか」「敢えてデモテープから雰囲気を様変わりさせてしまうか」のどちらかになる。 最後に最も曲のイメージにふさわしいヴォーカル・コーラス・ギター専用のメロディの譜面 を「ギターのソロパートを振られたときにギターで弾き語るような感じで乗っけるように」作り 、それをが直接何回か聴いた後に演奏し、ミュージシャンが実際に演奏したテイクに差し替えていく。 作詞・譜割りは必ずオフヴォーカル音源が完成してから取り掛かる。 スケジュールに余裕があれば、完成音源を土台にさらにソロパート・ボーカルを被せて、厚みを持たせる。 作業が終わるのは翌朝の7時頃。 スタッフと雑談・打ち合わせをしたり、食事を食べた後に自宅に戻るが、何かしら情報収集のために本を読んでいることが多い。 以上の工程 をTMデビュー前の時点で雛形は出来ていたが 、完全に確立できたと思えたのはの「」を作った辺りとのこと。 デモテープの制作はTMの楽曲の場合は一キーボーディストとして直感で生んだリフ・フレーズを中心にしたオフヴォーカル優先、globeの楽曲の場合は小室による仮歌のみで構成され、周囲に提供する楽曲の場合はメロディ優先で制作する。 最初から指定のシンガーに向けて作った楽曲を結果的に別の人が歌うケースになっても、別の人が歌えるようにカスタマイズする作業をすることもある。 普通に2曲作るのに平均6〜7時間はかかり 、余裕を持たせてクオリティを普段以上に高める場合は1日10時間はスタジオにこもる時間を作り、3〜5日はかける。 その姿勢は日本・海外を問わない。 小室の仮歌がなくても小室が新しく作り上げた楽曲をすぐに歌いこなせるのは、それこそ宇都宮とKEIKOだけだった。 19歳の時にプレゼンをした際、そのデモテープが「家にあったオルガンを弾いて、犬の声も一緒に入っていた」内容だったため、レコード会社のディレクターに「これではどれがメロディだか分からない」とダメ出しされた。 その苦い経験もあり、『レコード会社の・書類等で散らかった室内の中で、相手の顔が見えない状態でも、室内で仕事中の人にも興味を持ってもらえるか』『古いで聴かれてもディレクターの気を引くことができるか』『レコード会社の人に如何に観客として楽しんでもらうか』『商品版の形をどこまで描けるか』を考えてデモテープの段階で本番のレコーディングと同じ環境の整ったスタジオ・機材・16~24chで録り、イントロから間奏まで完璧に作り上げ、も行い、他のレコード会社が作る完全パッケージメディアより良いものを目指した。 ただし、それが他の編曲家も関わる曲だった場合には編曲家を困らせてしまうこともある。 を使用していた際はイントロからアウトロまで流れの型を必ず存在しているためそれに合わせて考えて、その先の違う型を使いたいなら全く別の次の考えに進めなければいけないため、テープを使用するデモ作りを「時間軸に乗せる作業」と称していた。 を導入した際、時計回りではなくパズル感覚でデータを介してできる切り貼り・抜き差し等の編集作業の簡単さに感動し、次第にテープレコーダーは使わなくなる。 いかに自らの曲のイメージにすり合わせながら「カードのように」数々の楽曲を引用・・再利用して組み合わせ 、 「小室サウンド」として、アレンジして完成させるかがポイントになっている。 この手法については「の楽曲の作り方と似ている。 彼らが自分達の好きなが制作した3曲を1曲に詰め込んだような感じ」 「いいサンプリングのネタと音色が一つでもあればそこから広げて1曲できる。 海外では完全にそのノリ。 もうそろそろ『サンプリング=盗む』という感覚も消えていい。 のようにネタを使われているアーティストがにこともあるのだから」 「引き出しがあり、そこから引用したものはあります。 ただ、曲作りのためのデータというより、記憶の代わりに使っているだけ。 外国の誰かと似ることはないが、自分の前の楽曲と似ることはある。 それがない用に確認するだけです」 「1970年代の誰もが知っている曲のある部分をイントロにつける、バックトラックに知っている曲のフレーズをつけておくと通りすがりの人をも驚かせる。 一種のです」 「機材が進歩すると共に『この部分を直せばもっといい音源になる』という思いが強くなった」 「自分の力で作ることはもちろん大切だけど、自分が影響を受けたものを紹介するのもまた大切」 「いくら真似して作ったと言っても、元ネタが見えなかったらそれは既にオリジナル」 「『何かに似ているけど気持ちよくて格好良いよね』とみんなに思われれば、『似ている・似ていない』の問題はクリアできる」「『どんな方から影響を受けましたか? 』と聞かれないアーティストはいない。 アートは中々インスパイアから逃れられない。 コピーとインスパイアを積み重ねて誰もやった・使った・聞いたことのないほんの数秒間、瞬間でもいいオリジナルを発明してやっと匠になれる。 僕の中で発明と思っているのが安室さんの『』のイントロ」 「過去に自分でゼロから作ってヒットした楽曲をお手本にして、フレーズの一部を再利用した方がファンの期待に応えられるし、自信になります。 純粋になる、化合物が無くなる感じですね」 と答えている。 それ故に楽曲はパート別のメロディの断片を除いても、常に100曲のストックを持っている。 作曲家のポリシーとしては「体を動かしたくなる『発散性』があるか、場を盛り上げるための『社交性』を持っているか、楽しいだけではないハードルの高いキーがもたらす『エクササイズ』になっているか、というカラオケでファンが求める3要素を常に意識する」 「一度書いたメロディは必ず使う」「メロディがボーカリストの心身にどんな作用をもたらすか細かくイメージする」「楽曲のジャンルを確立するためにのミックスの名残をできる限り残す」 ことを心掛けている。 TMでのレコーディング作業時、宇都宮に負担を掛けすぎたことへの反省から篠原涼子をプロデュースした1994年からボーカルディレクション・の指揮を自ら行い、を効かせたり、を回す等の歌い方は極力させないようになった。 編曲 に対しては、音色の0からの制作も同一の作業として含まれていると見ている。 TMデビューの時点で「シンセサイザーはどれを使うか? 」「ドラムはでやるか? ドラマーに頼むか? 」等全部が決めたり、選んだりしなければならない環境になったため「楽曲が商品になるために最も幅をきかせてる部分であり、レコーディングスタジオの中で一番偉い存在」と語っている。 小室が直々に手掛ける場合は、まずから考えていく。 「イントロが良くなければ、関わる意味がない。 その位僕はイントロが好き」「ほとんど作曲に近い」 「どのチャートで上位に入るかをシミュレーションする」「大体『』で第1位が発表された直後に聞こえてきそうな感じにする」 という気持ちでこだわっている。 ただしに、その楽器が担当するパートのアレンジを全面的に委ねることもあり 、もリズムの構成の視点で編曲に際してのアイディアを出す。 小室にとって、マニピュレーターはサウンドプロデュースの補佐的なポジションと捉えている。 アイディアが進まなかったり、楽曲と音色の雰囲気が合っていないと思ったときは、「歌やメロディと一緒にどんな音をどんな風に演奏するかを決める」「歌やメロディがどこで始まって、どこで休んで、どこで終わるかを決める」「歌もメロディもないパートで他の音色・コーラスをどうするのかを決める」「歌詞が完成していたり、歌手の声質・キャラクターが事前に分かっていたら、それに合った音色を作る」という4つの原点に立ち返っている。 ミキシング 小室にとって作業はに近い感覚で行われている。 「他の作曲家が手がけた楽曲のアレンジを依頼されたら、そのメロディはいじくれない。 リミックスを頼まれたときも既に録音してあるボーカルトラックは変えないようにしている。 その絶対的な制約がある上で組み立てるという点では、両者は似ている」と語り、作曲・編曲・ミキシングも等しくクリエイティブな作業として同一視している。 そのため、よりリスナーに近づける感触を味わうためにミキシングまで深く関わる。 初めて小室一人だけで行った作品は「」であり 、本業のではないから、の卓を見よう見まねで好き勝手にやをかけながら技術を身に付けていった。 ミキシングではボーカル・リズムのトリートメントに神経を使う。 昔は「下手なボーカル・音色が粗いから素材そのものを直す」というのもあったが、機材の性能が進むにつれ次第に「より完成度を高めるためのエフェクトの付け足し等の加工」と意味合いが正反対になっていき、小室個人でミキシングを行う場合は1トラック3~5時間は時間をかける。 ミックスするパートは一番その曲で聞かせたいトラックからやって行くようにしている。 「そのパートの輪郭を最初からハッキリさせれば全体を分かりやすく聴いてもらえる」という意向からきている。 録音 に対しては、トラックダウンからマスタリングにかけた作業段階で、音質について議論・実験を重ね、特に機材・設備・果ては土地の空気・気圧・電圧・温度・湿度・静電気・シールドケーブルに拘りを見せる。 短いサイクルでスタジオを世界各地に移転する。 小室曰く「ヒットが生まれる場所は年月が経つと全く違う。 拠点を固定してしまうと時代・テクノロジーとの矛盾を起こしてしまうため、もしかしたらサーカスのように明日移すかもしれない」とコメントしている。 ただ、全ての作業を自分のスタジオで行うほどの完璧主義ではなく「場所が滞在先のホテルでも・病室でも・車内でも、打ち込み用のキーボードとパソコン等の機材が置いてあって制作ができればそこはもう立派なスタジオで、データだけでほとんどの作業が済んでしまう」 「5千万円あったら機材を買うより他のスタジオを回って何枚かアルバムを作った方がいい。 今はどんなに高級な機材でもすれば簡単に届くために、あのスタジオにはあの機材があるからすごいという訳ではなくなってきている」 「の発達によって、で録音した音に遜色が無いものが作れるようになった」 「ロンドンでは電圧が240Vあり、それだけで音圧の高さ・倍音の気持ち良さ・鍵盤を叩いてからスピーカーが音が出るまでのスピードが日本のスタジオとは段違い。 機材面のサポートが充実していて、電話するだけでの機材メーカーからすぐにスタッフが来てくれて、その日の内に対応してくれるので本当に大切な作品はロンドンで録音したい。 今までの海外のスタジオで一番良いと感じたのはがオーナーを務める」 と話している。 自宅でのレコーディングの際の防音対策として、壁に大量の洋服を吊り下げている。 1990年代 - 2000年代は的確にミュージシャン・エンジニアを配置し、正確な指示を与えた上で、複数の楽曲のレコーディングを同時進行でスケジュール通りに終わらせるために1軒のスタジオに何室もの個人用ルームと総計50台を超える録音用のを用意し、小室・木根・久保こーじ・・・当時の専属マニピュレーター・ライヴミュージシャンのリハーサル専用のスタジオとしてそれぞれに割り当てて、それぞれが担当するパートに専念させていた。 その当時の状況を、小室とその関係者は下記のように表現した。 小室「さんの数々の将棋盤に合わせて戦術のバリエーションを変えて勝負するCMと似ています」 「24時間寝ないで、globeの曲を作りながら安室さんの『』を作っていました」• 「まず小室が曲を作り、アレンジしてオケを作る。 そのスタジオには僕は行かないで、完成した音を聴いて歌う。 ボーカルのブースには小室は来ない。 1984年からそういう分業体制だった」• 「付き合いは長いのに、TKと長く話したことがない」 「大量の依頼が来て、曲を量産しなくてはいけない。 『朝までにギターを入れて』というでも対応できない状況に、たまたま『24時間365日なんでもやります! 』という僕がいた」「決まった時間に作業することはなく『締め切りはこの辺だからそれまでにやっておいて』とベーシックトラックを渡されるので、それまでに済ませるのを次から次へと繰り返しました。 スタジオセッションのように皆が集まることはなかったので途中で行き詰ったらすぐに一旦休止もできた。 1曲に2日かけても、締め切りに間に合えば大丈夫だった」「96chののミキシング・コンソールの片方の48chを僕専用のブースとして自由に使わせてもらえた」「具体的な注文はなく『ギターを入れて』だけだった。 フレーズ面だけでなくサウンド選びもものすごく自由で、僕の判断で勝手にアレンジしたけどNGはなかった。 強いて言えば『テイクこれだけしかないの? 』と言われたことはあった」「レコーディング中は聞いている時間が一番長い。 リピートを何回もして、足りない所はないか余白を探す。 『どんなフレーズを入れるか』というアレンジャー的な考え方ではなくて、その他全体の楽器を聞いて、『ギターの質感を当てるか避けるか』が大事だった。 パート別にやっているから、逆に頭から通して弾けなかった」• 「スタジオが同時進行で3~4つは当たり前に動いていて、小室さんはその間に打合せも幾つもやっていました。 1週間に10作品とかを並行してやっていて、trfだけみても絶えずリリースがあって、それをライブツアーをやりながらやっていたので、僕とは常にスタジオに入っていました。 そこに小室さんから楽曲・仮歌・歌詞が次々と届いて、それをどんどんレコーディングしていくという日々でした。 できあがるものに対して、小室さんがNGを出したことはなかったです。 忙しかったからかもしれないですけど、ダメ出しは覚えている限りはなかったです」 素材のがスムーズになって、で海外のスタジオのスタッフと話せるようになっても、小室は正式なレコーディングは現地に行きスタッフと直に対話しながら行うことを念頭に置いていた。 目標としてはを狙って活動しているけど、仕事中では仲のいいプロデューサー・ミュージシャンをすぐに直接楽しませるために作っている。 小室は「特にアメリカ・ロサンゼルス出身のエンジニアが隣にいると身が引き締まり、その人が『COOL! 』と言ってくれないと終わらない気がする」と語っている。 マスタリングの際に確認できた小さなブレス音等がCDとして納品されたときに、聞こえなくなってしまうことが多々あった。 理想は「大元の素材は384kHzで持っておいてもいいのではないか。 下のサンプリングレートから上げることは不可能だから」「携帯電話で聴いても、潰れたり埋もれたりしない音像」 を目指している。 キーボーディスト・シンセシスト シンセサイザーの使い方はハードウェア・シンセサイザーを重視する傾向が強く、レコーディング作業時 のみを「楽器として重要な要素であるフィジカルコントロールの面でハードに劣る」「鍵盤の方が手っ取り早い」「マウスが使いづらい」「つまみがあって二度と出せない音を作り出せる機材に可能性を感じてしまう性分なので、マウスや数値だけでは限界がある」 「基本的にステップ入力はしない。 の時その手法でイントロを作るだけでも大変苦労した。 それに打ち込みから始めてしまうと音色によってデュレーションやが違うので、いざ聞くとニュアンスが全く違ってしまう」 として使用していなかった。 音自体はで作った後、それを鍵盤で即興で弾き、それを・等でエディットしていく形を好んでいる が、による身体への負担・の性能と音圧の高さとハードウェアタイプとの差の大きさ・マウスの操作性の向上(主に)・他のクリエイターからの影響を考慮し、2013年3月に個人所有のスタジオを改装する際にソフトウェアタイプの機種を導入した。 また、同年の7月20・21日にさいたまスーパーアリーナで行われたTM NETWORKのコンサート『TM NETWORK FINAL MISSION -START investigation-』では初めてソフトシンセをライブで使用した。 ライブのリハーサル中、PCが頻繁にフリーズしてしまったため、バックアップとして急遽パソコンをもう一台購入し、ソフトシンセももう一式購入した。 そのため、「結果ハードシンセよりも高くついたが、2台あることでをやるので音を重ねていけたりする等プレイの幅が広がった」と小室は語っている。 それでも2013年の時点で「記念館を作れる」くらいに個人でハードウェアタイプの機種を所有している。

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