カトリック 関口 教会 ミサ。 聖週間ミサ・典礼の動画配信

ミサ

カトリック 関口 教会 ミサ

「 ミサ」のその他の用法については「」をご覧ください。 ミサ(: missa, : mass)は、においてとをしてのが行われる(祭儀)。 またはが司式し、信者全体が捧げるものとして位置づけられており 、カトリック教会で最も重要な典礼儀式である。 カトリック教会における他の典礼や、の他における()一般をまとめて「ミサ」と呼ぶ事例がマスメディアや書籍などで散見されるがこれは誤りである。 「ミサ」とは、本項で詳述するカトリック教会における聖体の秘跡にかかる典礼だけを指す語彙である。 カトリック教会のミサは、では に、 および では に相当する。 特に、正教会 およびプロテスタントでは「ミサ」という表記は全く使われない。 教派や祈祷の種別を問わない場合は「」という表現を使うのが無難である。 ミサの様式は世界共通で、大多数の地域のカトリック教会で「ラテン典礼と呼ばれる様式によって行われるが、においては、ビザンチン式などラテン典礼と異なるミサが行われることがあり、その場合の詳細な式次第などは後述と異なる場合がある。 本項ではラテン典礼を中心に詳述する。 古代以来1960年代までラテン典礼におけるミサはすべてで行われていたが、以降の典礼改革により各国語でも行われることになった。 名称 [ ] 教派用語 [ ] 「ミサ」はから転写された用語であるが、で(で)「ミサ」と言えば、本項で詳述しているカトリック教会における()に由来するの()が行われる(祭儀)のみを指す名称であって、カトリック教会における他の典礼をも「ミサ」と呼ぶのは誤りである。 たとえばカトリック教会におけるも、典礼ではあるが、ミサではない。 なお、外国においては「マス」 : mass という表記は、、で使われる。 日本で片仮名表記で「ミサ」と書くのはでは稀であり、日本のルーテル教会に至っては皆無である。 聖公会、ルーテル教会では、主の晩餐に由来する礼拝をふつう「 聖餐式」と呼ぶ。 教会で行われている祈祷について、のや祈祷内容が不明な場合は、単に「」と呼ぶのが無難である。 ミサと礼拝の別対照表 教派・組織 礼拝一般 礼拝 礼拝 礼拝 礼拝 に由来する礼拝 ミサ 御ミサ ミサ聖祭 感謝の祭儀 日本語名 [ ] カトリック教会において、ミサは「 感謝の祭儀」とも言いあらわされる。 これは「の死とを記念し、その復活の恵みに与る、喜びに満ちた感謝の祭儀」であることを示しており 、ミサ式文の最後の部分では「感謝の祭儀(またはミサ聖祭)を終わります。 」という言葉が司式によって唱えられる。 このほかにミサを意味する言葉としては「 主の晩餐」「 聖餐式」がある。 「主の晩餐」は、ミサが最後の晩餐に起源をもつこと、「聖餐式」は聖なる会食であることを示している。 また、日本のカトリック教会では「 ミサ聖祭」 や「 御ミサ(ごみさ)」 と呼ばれることもある。 なお、ミサのことを漢字では「弥撒(彌撒)」と書き、のみならず古くは日本でも漢字で書かれることがあったが 、現代の日本のカトリック教会ではこのような漢字表記が使用されることはない。 ラテン語 [ ] 「ミサ」という名称は、式の最後のの言葉「 Ite, missa est. このミサの最後の「 Ite, missa est. 」という言葉の意味については、近年「行きましょう、ミサを終わります」と訳されることがあるが、ラテン語の文法を正確に理解するならば、この文章には、二人称複数(あなたたち)に対する命令形として「 ite」(行け)がまずあり、次に、三人称単数の女性を主語とした「 missa est」(送られた)という過去形の命題が続いている。 聖は、「 missa est」(送られた)の主語は「 hostia」(いけにえ)であると断言している。 まず「ミサ」という名称の由来を神学大全の中で次のように言っている。 「このためにもミサと呼ばれている。 その理由は、会衆が司祭を通して天主に祈りを送るように、司祭は天使を通して祈りを送るから、或いはキリストは私たちのために 送られたいけにえ hostia nobis missa であるから。 故に、ミサの終わりに、助祭は祝日に会衆にこう言う「行け、送られた」 ite, Missa est と、すなわち、天主に受け入れられんがために、いけにえは天主に天使を通して送られた、との謂いである。 」 また「ヴェディングハウゼンのリカルドへのミサの解説」の中では「諸聖人のためのミサの終わりに、「行け、送られた ite, Missa est 」という言葉を通して、あたかも「我々のために聖父によって いけにえは送られた、或いは我々によって聖父へと再び送られた、故に、かの安息に早く入るように急げ」と言われ、聖人達がそこにおいてすでに憩っているかの栄光へと我々は見いだされる。 」と説明している。 概説 [ ] ミサを司式する キリスト教はもともとの中から生まれたため、聖体祭儀(ミサ)もユダヤ教ので行われていた礼拝の形式(の朗読と説教、祈り)に、キリスト教徒がのを記念して行っていた聖体の典礼と会食が組み合わされて出来たものである。 キリストは最後の晩餐の席でパンを取り、「これはわたしの体である」と言い、またについて「これはわたしの血」と言った。 キリスト教徒は二千年にわたって、キリストのを祝うために毎週日曜日に集まり、この「主の晩餐」を行ってきた。 これがカトリック教会で「ミサ」(感謝の祭儀)と呼ばれる礼拝集会である。 ミサはキリストの生涯、特にその死と復活を思い起こし、キリストをとおして実現した救いの恵みに感謝し、パンとぶどう酒のしるしによってキリスト信者がキリストと一つに結ばれるもので、カトリック信者にとってもっとも大切な(神の恵みのしるし)とされている。 聖体祭儀には地方・時代においていくつかの形式が生まれたが(ミラノ典礼、アンティオキア典礼など)、通常ミサというときはを表す。 そもそも「ミサ」という語自体がローマ典礼のラテン語典礼文に由来する。 ローマ典礼は()の配下にある(つまりは世界中のほとんど)で行われている。 日本のカトリック教会もローマ典礼である。 の典礼は1960年代のを反映して改革され、典礼言語として以外に各国・各地域の言語を使うことができるようになった。 日本のカトリック教会でも、昭和40年代前半までミサはラテン語で行われていた。 また、それまではミサは司祭1人で執り行い、司祭が信徒に背を向ける形で祭壇に向かう形(背面式)だったが、第2バチカン公会議以降の改革でミサ本来の意味が再検討され、数人の司祭によるミサの挙行(共同司式)も認められ、式自体も司祭が信徒に向かう形(対面式)で行われるようになった。 詳細は「」を参照 なお、この改革以前の「」と呼ばれるミサ形式から、の聖餐式や、ドイツのの礼拝が生まれた。 儀式を外面から眺める限り、これらの教会の礼拝はよく似ている。 ミサは基本的にや教会堂において執り行われるが、特別な場合は屋外や一般の室内で行われることもある。 カトリックではは毎日必ずミサを捧げなければならないため、ミサはすべてのカトリック教会で(司祭が常駐しない巡回教会や、司祭が不在の場合を除いて)毎日執り行われている。 ミサを執行することを「ミサをたてる」とも言う。 司祭が一人でミサを執り行うこともあるが、通常はミサに参加する(「与る」(あずかる)とも表現される)信徒(会衆)と共に行われる。 日曜日のミサを「のミサ」、平日のミサを「週日のミサ」、降誕祭()など特別な祝祭日のミサを「祝日のミサ」として区別する。 信徒は、毎日曜日(主日)といくつかの守るべき祝日のミサにあずかることが務めとされている。 かつて20世紀半ばまではミサの行われる時間が厳しく制限されており、降誕祭との前夜を除いて午後1時から夜明けの1時間前以前まで行うことができなかった。 今ではこの制限は廃止されている。 また、現代では土曜日の夕方以降に行われるミサも日曜日(主日)のミサとして扱うことができるため、日曜日にミサに参加できない信徒の便宜を図るため、多くの教会では土曜日の夕方にも「主日のミサ」が行われている。 また以前はミサの前は日付が変わってからミサまでの禁食が義務付けられていたが、現在ではミサの1時間前からの禁食に緩和されている。 ただし水・薬は禁食の対象ではない。 ミサにはすべてのミサに共通の部分と、そのミサの目的や日時によって変わる部分がある。 前者を通常文、後者を固有文という。 ユダヤ教との関連 [ ] との関連において、(-)は、その第22総会において「ミサ聖祭とは、旧約の種々のいけにえによって予型とされ、示されていた(4:4、8:20、12:8、12:22、随所参照)善が実現し完成したものであり、新約のいけにえであるミサ聖祭は旧約のいけにえのすべてを含んでいる」とする。 トリエント公会議は、そのことを、次のようにユダヤ教のいけにえとミサ聖祭との関係について宣言した。 「によれば、旧約時代にはレビ族の司祭職は完全なものでなかったため、慈悲深い父である天主の計画によって、 メルキセデクの位にひとしい他の司祭を立てる必要があった(創世記14:18、109:4、7:11)。 それがすなわち、私たちの主イエズス・キリストであって、キリストは「聖化すべきすべての人々を完全なもの」(ヘブライ10:14)にすることができた。 「イスラエルの子たちがエジプトからの脱出の記念としてささげた旧約の過越(出エジプト記12:1以降)を祝った後、キリストは新しい過越の祭を制定した。 キリストは自分がこの世から父の所に移る時、自分の血を流すことによってわれわれを救い、「闇の権力から救い出し、自分の国に移した」(1:13)。 キリストはその記念として、目に見えるしるしのもとに、教会において司祭たちによって自分をささげるのである。 「清い供え物が、それを供える者の側からの欠点または罪悪によってけがされることができない。 この供え物は、 主がマラキア預言者を通じて予告したものであり、諸国民の間で偉大な主の名に、主の名のためにささげられる(1:11参照)。 使徒パウロもコリント人に書き送った手紙の中で、この供え物について述べている。 すなわち、悪魔の食卓に列席してけがれた者は、主の食卓に列席することはできないと。 食卓という時、パウロは祭壇をさしている(10:21参照)。 ミサの本質 [ ] 旧約のいけにえの完成でありキリストの教会のいけにえ はその第22総会において次のようにミサ聖祭について宣言した。 「私たちの天主であり、主であるキリストは、十字架の祭壇の上で死に、「一度で永久に」(10:14)父である天主に自分をささげて、救いのわざを完成した。 しかしキリストの司祭職は死によって消去るものではなかったので(ヘブライ7:24、27)、敵の手に渡される夜(11:13)、最後の晩さんにおいて、自分の愛する花嫁である教会に 目に見えるいけにえ(: visible sacrifice)を残したのである(人間のためにはこれが必要であった)(第1条)。 これによって、 十字架上で一度血を流してささげたものが表わされ、その記憶が世の終りまで続き(コリント第一11:23以降)、 その救いの力によってわれわれが毎日犯す罪が赦されるのである。 キリストは「メルキセデクの位にひとしい永遠の司祭」(109:4)であると宣言して、自分の体と血をパンとブドー酒の形色のもとに父である天主にささげた。 そして、使徒たちを新約の司祭として制定し、パンとブドー酒の形色のもとに拝領するように自分の体と血を与えた。 使徒たちとその後継者たる司祭職に、「私の記念としてこれを行え」(22:19、コリント第一11:24)という言葉で、それをささげるように命じた。 罪の償いのための真のいけにえ トリエント公会議は言葉を続けてこう宣言する。 「ミサにおいて行われる この神的ないけにえの中に、十字架の祭壇上で血を流して自分自身を天主にささげた(ヘブライ9:27) その同じキリストが現存し、血を流さずに自分自身をささげている。 したがって、聖なる公会議は次のことを教える。 すなわち、 ミサ聖祭は真に罪の償いのいけにえである(: this sacrifice is truly propritiatory)(第3条)と。 「われわれが真心と正しい信仰、畏敬の念と痛悔と償いの心をもって天主に近づくならば、「適切な時に慈悲を受け、恩恵を見出すようになる」(ヘブライ4:16)であろう。 なぜなら、このいけにえによってなだめられた主は、悔改めの恩恵とたまものを与え、どのように重い大罪さえも赦すからである。 すなわち、(十字架のいけにえと祭壇のいけにえであるミサ聖祭とでは) いけにえは同一である。 あの時自分を十字架の上でささげたキリストが、今司祭の役務を通してささげているからである。 違うのはささげ方だけである。 事実、 この無血の供え物によって、十字架上の(流血の)ささげものの成果を非常に豊かに受けることができる。 しかし、このいけにえ(ミサ)によって十字架上のいけにえが決して廃止されるのではない(第4条)。 」 ミサの式次第 [ ] 以下、ローマ典礼における現行のミサ式次第を解説する。 開祭の儀 [ ] が入堂し、祭壇についてミサを開始する。 信徒・など会衆がいる場合、ミサの初めには「入祭の歌」として聖歌が歌われることが多い。 入祭の歌は義務ではないが、歌わない場合は入祭唱を唱えなければならない。 初めに司祭と会衆の間で挨拶が交わされ、初めの祈りが唱えられる。 次に悔い改めの祈りと司祭による「」という短い祈り、続いて「あわれみの賛歌」()が唱えられ、及び以外の主日と祭日には「栄光の賛歌」()が唱えられる。 ことばの典礼 [ ] 次に「ことばの典礼」といわれる部分に入る。 ここでは平日には2つ、主日と祝日には3つの聖書からの部分が朗読される。 それらの朗読は第一朗読、第二朗読(主日と祝日のみ)、福音朗読と呼ばれる。 第一朗読では通常、が読まれるが、復活節に限って『』か『』が朗読される。 第二朗読は使徒の書簡(主にの手紙)が朗読される。 第一朗読の後には、「答唱詩編」という先唱者と会衆による章句の繰り返しと詩編の朗読が行われるが、通常のミサでは歌われることが多い。 「アレルヤ唱」(の期間は「詠唱」)の後で行われる福音朗読はその名前の通り、が朗読される。 第一朗読、第二朗読は信徒が朗読することが多いが、福音朗読は司祭もしくはが行うことになっている。 福音朗読の時、会衆は起立することになっている。 なお、「ことばの典礼」(聖書朗読)の際、現代の日本のほとんどのカトリック教会ではが用いられている。 福音朗読に続いて、司祭(あるいは助祭)による説教が行われる。 説教では通常、その日の福音や聖書朗読の解説がされることが多い。 主日と祭日には説教の後で「信仰宣言」が行われる。 ミサの国語化以来、日本の教会は式に用いられる略式の信仰宣言を用いるか、ごくまれに文語訳の()を用いてきたが、2004年に口語訳のニケア・コンスタンチノープル信条が司教団より公式に発表された。 従来のを唱えることもできるが、略式の信仰宣言は廃止された。 信仰宣言に続き、そのときに応じて意向で唱える「共同祈願」という祈りが唱えられる。 感謝の典礼 [ ] 、、及び一部で用いられる、「ホスチア」とも呼ばれる無発酵パン。 写真のように薄い形状をしたものがよく用いられるが、稀に煎餅のように厚い無発酵パンを用いる教会もある。 大きいほうは司式者用、小さい方は会衆用であるが、不足時は必ずしもこれによらない。 ことばの典礼が終わると、パン(「ホスチア」と呼ばれる、小麦粉を薄く焼いた食べ物。 これがになる)と、そして水が祭壇へ準備される(これを奉納という)。 ここから始まる「感謝の典礼」はキリストのに由来するものとされ、ミサの中心的部分である。 次に司祭によって「奉納祈願」と「叙唱」という祈りが唱えられ、会衆と共に『黙示録』に由来する賛美の祈り「感謝の賛歌」()が唱えられる。 次に司祭によって「奉献文」が唱えられ、この中でが行われる。 ここでは司祭がパン(ホスチア)とぶどう酒を取って、キリストが最後の晩餐で唱えた言葉を繰り返す。 これによってパンとぶどう酒がキリストの体(聖体)と血(御血(おんち))に変わる、というのが伝統的なカトリック教会の教義である。 神学用語では「 実体変化(全実体変化)」(: transsubstantiatio)といわれ、これについては歴史上多くの議論が行われてきた。 (諸派では、宗教改革以降、パンとぶどう酒が本当にキリストの体に変わる訳ではなく、単なるシンボルに過ぎないと考えたが、カトリック教会はでの議論によって改めてこれを否定、現代に至っている。 ) 詳細は「」を参照 交わりの儀 [ ] 奉献文に続いて、福音書の中でキリストが弟子たちに教えたとされる「」が唱えられる。 そして司祭の祈願に続いて「平和の挨拶」という司祭や会衆同士のあいさつが行われる。 さらに「平和の賛歌」()が続き、司祭はパン(聖体)を裂いて一部をぶどう酒(御血)に浸す。 司祭が聖体を食べ、御血を飲む。 これを「」という。 司祭(または助祭)は続いて聖体を信者に配り、信者も聖体拝領を行う。 通常はパン(聖体)のみだが、場合によっては信者もぶどう酒(御血)を飲むこともある。 聖体拝領が終わると、司祭が拝領後の祈りを唱えて交わりの儀がおわる。 この場合の「交わり」というのは、神と人との交わり、参加者同士が同じ聖体を受けて交わるという意味である。 閉祭の儀 [ ] 拝領後の祈りのあと、信徒・会衆への連絡などが行われることがある。 続いて司祭の祝福とミサからの派遣が行われる。 ミサの終わりにも「閉祭の歌」として聖歌が歌われることが多い。 なお、司祭と会衆との間に交わされる「最後の交唱」でミサは終わりなので、閉祭の歌そのものは義務ではない。 参考文献 [ ]• 脚注 [ ]• GoHoo()• "おみさ"ではない。 に発行された「弥撒礼拝式」()など• たとえばカトリックのに参列する際のの表書きは「御弥撒料」とも書かれる、と紹介されていることが書籍やネットなどで見受けられるが、これは誤りで、そもそも漢字でなくともカタカナの「御ミサ料」も、実際にカトリック信者の間で香典の表書きとして用いられることはない。 カトリックの葬儀の際の香典には「 お花料」と書かれるのが一般的である。 なお、葬儀ミサや追悼ミサなどの依頼・謝礼として遺族がに渡す際の表書きとして「御ミサ料」と書かれることは無くはないが、その場合でも「ミサ御礼」という表書きの方が一般的によく用いられている。 (参照:)• Et propter hoc etiam Missa nominatur. Quia per Angelum sacerdos preces ad Deum mittit, sicut populus per sacerdotem. Vel quia Christus est hostia nobis missa. Unde et in fine Missae diaconus in festis diebus populum licentiat, dicens, ite, Missa est, scilicet hostia ad Deum per Angelum, ut scilicet sit Deo accepta. In fine Missae pro sanctis invitamur ad illam gloriam in qua sancti jam requiescunt, per ite, Missa est, quasi dicat: hostia a patre nobis missa est, vel a nobis ad patrem remissa est, ideo festinate ingredi ad illam requiem. 「」『』。 2018年4月6日閲覧。 関連項目 [ ]• (旧典礼)•

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カトリック東京大司教区、さいたま教区はミサを中止 名古屋教区は8日から 横浜教区は現場の判断にゆだねる

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カトリック東京大司教区の菊地功大司教(自身のツイッターより) それに先立つ2月26日、「」と題する文書で、「2月27日(木)から3月14日(土)まで、公開のミサを原則として中止」するとしていたが、公開ミサ中止の期間が延長されたことになる。 新型コロナ・ウイルス対策を検討する政府の専門家会議は9日、今の状況について「爆発的な感染拡大には進んでいない」としたものの、イベント自粛などの対策については継続するよう求めたことを受けたかたちだ。 安倍晋三首相も10日、新型コロナ・ウイルス感染症対策本部の会合で、大規模イベントの自粛について「今後おおむね10日間程度」はこれまでの取り組みを継続するよう求める方針を表明した。 菊地大司教は9日、「」という文書と動画を発表し、公開ミサ中止で直接聖体拝領が受けられない痛みを覚えている人に向けて励ましの言葉を語った。 これはその一部だ。 この困難な時期にあっては、互いの命を守ることを最優先に考え、豊かな思いやりの心で支え合うことを第一に考えてくださることを望んでいます。 今回のような、まれに見る状況に遭遇して、お一人お一人のこれまでの信仰生活の体験に基づいた、様々な思いが交錯していることと推察いたします。 こういったときだからこそ、わたしたちがキリスト者として、主イエスの体における一致へと招かれていることをあらためて思い起こし、一人で祈っているときであっても、それが目に見えない形であったとしても、わたしたちはつねに主イエスの体である一つの共同体に結ばれているのだという信仰における確信を深めていただくことを期待しています。 わたしたちはこの信仰を一人で生きているのではありません。 目に見えないきずなのうちに、ともに道を歩みながら、信仰を生きているのです。 「カトリック東京大司教区の皆様」に宛てた「新型コロナ・ウイルス感染症に伴う3月15日以降の対応」の全文は次のとおり。 新型コロナ・ウイルスによる感染症の拡大と重篤な症例が報告が相次ぎ、世界各地で公開のミサなど教会活動の中止が決められています。 一昨日にはローマ教区を含めイタリア全土のミサの中止も発表されました。 国内における感染のピークの時期も、まだ見通せていません。 こういった状況に鑑(かんが)み、3月15日以降の東京教区の対応を以下のように定めましたので、具体的な対策をお願いいたします。 1 3月15日(日)から3月29日(日)まで、東京教区のすべての信徒を対象に、主日のミサにあずかる義務を免除します。 2 3月15日(日)以降も当面の間、公開のミサを原則として中止します。 3 結婚式と葬儀については、充分な感染症対策をとった上で、通常通り行います。 4 ミサ以外の諸行事に関しては、規模が小さい集まりを除いて、できる限り延期または中止するようにご配慮ください。 実施する場合は、手指消毒はもとより、換気を充分に行い、互いの間隔を大きくとり、できる限り短時間で終了するように心がけてください。 なお、関口教会の信徒の方のご協力を得て、主日のミサをインターネットで映像配信していますが、これを当分の間継続しますので、映像を通じて祈りの時をともにし、霊的聖体拝領を受けられるように勧めます。 また主日に祈りを捧げる務めがなくなるわけではありませんから、教会共同体との一致のうちに、主日には祈りの時を持つように務めてください。 なお映像配信については、字幕などのサービスを常時提供できないこともあります。 担当してくださる方のボランティアとしてのサービスに頼っておりますので、ご理解いただきますようにお願いいたします。 3月30日以降の対応については、状況を見極めながら、医療専門家の助言をいただき、3月23日過ぎ頃に、あらためて発表いたします。

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今後のミサ映像配信に関して

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カトリック東京大司教区の菊地功(きくち・いさお)大司教は7日、「日本政府による緊急事態宣言を受けて」という文書を発表した。 日本政府が同日、7都府県を対象にして、新型コロナ・ウイルス対策の特別措置法に基づく「緊急事態宣言」を出したことを受けてのものだ。 同日夕の記者会見で安倍首相は次のように試算を公表した。 「東京都では感染者の累計が1000人を超えた。 足元では5日間で2倍になるペースで感染者が増加しており、このペースで増加が続けば、2週間後には1万人、1カ月後には8万人を超える。 だが、専門家の試算では、私たち全員が努力を重ねれば、2週間後には感染者の増加をピークアウトさせ、減少に転じさせることができる」 東京カテドラル・カトリック関口教会(写真:Daderot) 同教区の管轄区域である東京都と千葉県がその対象地域の中に入っており、東京都は感染者が1195人で、いちばん多く確認されており、千葉県は291人で3番目だ(7日現在)。 先に3月23日付の「」という文書では、主日のミサの義務の免除と公開ミサの中止は「当面の間」としていたが、今回、「これについては、残念ですが、少なくとも緊急事態宣言が解除される5月9日頃までは継続せざるをえません」と述べている。 同文書では、「緊急事態宣言に伴って、いくつかの変更点とお願いがあります」として、四旬節の期間中に受ける「ゆるしの秘跡」について、「従来の箱形や個室型の『告解室』の利用は避け……応接室などで、少し距離を置いて、互いにマスクを着用の上、秘跡を受けてください」と通知した。 また、復活祭に通常行われる「洗礼式」については、「大変残念ですが、緊急事態宣言が解除されるまでは、緊急時を除いて、後日に延期といたします」としている。 明日9日から「聖なる3日間」(主の晩さんの夕ベのミサ、主の受難、復活の聖なる徹夜祭)、そして12日の「復活の主日」(イースター)と、本来なら1年で最も多く人々が教会に集う時だが、今年は会衆を入れずに、司祭と聖書朗読や奏楽などの奉仕者だけで典礼を行う教会もある。 また、カトリック関口教会で菊池大司教が司式する聖週間の典礼も、される。 「」の全文は次のとおり。 4月7日付で、政府から今回の新型コロナ・ウイルス感染症拡大を受けて、緊急事態宣言が発表されます。 東京都と千葉県は、その対象地域の中に入っております。 期限は一ヶ月と報道されています。 東京教区としては、3月24日付で発表した「新型コロナ・ウイルス感染症に伴う3月30日以降の対応」に基づいて、「感染しない、感染させない」ことを念頭に、自分の身を守るだけではなく他の方々への十分な配慮をもって、対応を続けてまいります。 同文書では、「当面の間」として主日のミサの義務の免除と公開ミサの中止を定めております。 これについては、残念ですが、少なくとも緊急事態宣言が解除される5月9日頃までは継続せざるをえません。 4月末を目途に、ゴールデンウィーク以降の対応について、あらためてお知らせいたします。 なお、今回の緊急事態宣言に伴って、いくつかの変更点とお願いがあります。 1 ミサ以外の諸行事について ミサ以外の諸行事・会合に関しては、緊急に必要な場合を除いて、どのような規模であっても、緊急事態宣言が解除されるまでは、中止または延期としてください。 2 ゆるしの秘跡について ゆるしの秘跡が必要な方は、司祭に相談ください。 ただし、従来の箱形や個室型の「告解室」の利用は避けてください。 応接室などで、少し距離を置いて、互いにマスクを着用の上、秘跡を受けてください。 3 洗礼式と合同堅信式について 復活祭に予定されていた洗礼式は、大変残念ですが、緊急事態宣言が解除されるまでは、緊急時を除いて、後日に延期といたします。 第二バチカン公会議の教会憲章に、「聖霊の働きのもとに、明らかな意志をもって教会に合体することを願っている洗礼志願者は、その望みそのものによって教会に結ばれており、母なる教会は彼らをすでに自分のものとして愛と配慮をもって迎え入れる(14)」と記されています。 残念ながら洗礼は少し先になってしまいますが、志願者の方々には、「教会に合体することを願っている」明らかな意思があるときに、すでに教会共同体の一員となっていることを、心にとめていただけると幸いです。 なおそれに伴って、それぞれの方の学びや準備のことなども考慮して、5月31日に予定されていた教区合同堅信式は、残念ですが今年は中止といたします。 4 葬儀について 感染が拡大していますので、参列者や司祭だけでなく、葬儀社の方々も感染の危険にさらされています。 ご遺族の皆様には司祭とよく話し合い、例えば火葬を先に済ませて、後日事態が落ち着いてから葬儀を行う可能性もお考えください。 教会は、一人ひとりのいのちを守ることを優先し、今回の事態に対応していきたいと考えています。 また、困難な事態が長引く中で、孤立する人、経済的に困窮する人、理解の相違から排除されたり、対立の中に巻き込まれる人など、様々な形でいのちが危険にさらされる可能性があります。 死に打ち勝って復活された主イエスは、新しいいのちの希望を、わたしたちに与えています。 困難な状況の中にあるからこそ、わたしたちは孤独の鎖を打ち砕き、互いに支え合って立ち上がり、希望の光を社会の中に掲げたいと思います。 互いに集まることができないとしても、信仰によって結ばれていることをあらためて自覚し、目に見えない霊的な教会共同体に属していることを思い起こしましょう。 一人ひとりのいのちを守ることを最優先として、心配りの日々を過ごしてまいりましょう。 この困難な事態にあって、昼夜を問わず感染した方々を救うために尽力されている医療関係者の方々には、心から感謝したいと思います。 いつくしみ深い神の守りの手が、医療関係者の上に差し伸べられるように祈りましょう どうか、祝福に満ちた復活祭を迎えられますように。

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