スタン ハンセン 入場 曲。 スタン・ハンセン ブルロープ直撃のおばあちゃんに「ゴメンナサイ」

スタン・ハンセン ブルロープ直撃のおばあちゃんにリングを下りて「ゴメンナサイ」(東スポWeb)

スタン ハンセン 入場 曲

今回は、ジャイアント馬場が限界説を吹き飛ばした名勝負、スタン ハンセンとの一騎打ち(1982年2月4日)を、ハンセン衝撃の全日プロ乱入から、当時のプロレスファンはこの一戦をどう見ていたのか、ご紹介します。 世界最強タッグリーグ戦の最終戦、蔵前国技館大会。 「ブルーザー ブロディとジミー スヌーカが入場して参りました。 おっと、これは誰でしょうか?ウェスタンハットを被った大型の男…あ、スタン ハンセンだ!」 「ハンセンですよ!」 「スタン ハンセンがセコンド!大ハプニングが起きました!」 倉持アナと解説の山田隆さんのこの実況はあまりにも有名です。 この驚きようは決して大げさでなく、TV中継を観ていたプロレスファン、マスコミまでもが、まったく同タイミングで受けた衝撃は、ものすごいものがありました。 スタン ハンセンはライバル新日プロで数日前まで猪木と抗争を繰り広げ、圧倒的な人気を誇るエースガイジン。 それがいきなり、 ライバル団体である全日プロの大一番に現れたのです。 当時小学生の私はあまりの出来事に「引き抜き」とは理解できず、その後の倉持アナと解説の山田隆さんの「ブロディとハンセンは大学の先輩後輩で〜」とか「かつてアマリロのファンクス道場で若手時代の鶴田と〜」などの説明を聞きながら「今日は応援に駆けつけただけなの?」なんて呑気なことを考えていました。 すでに移籍契約が取り交わされていたなんて、知る由もありません…。 試合後半、ドリーがスヌーカにスピニングトーホールドをかけている最中、場外でブロディとテリーが乱闘。 ここでついに、ハンセンが 伝家の宝刀 ウェスタンラリアットで試合に介入します。 試合はブロディのキングコング ニードロップでドリーが轟沈、ブロディ組の初優勝となります。 リング上で、ブロディ、スヌーカと共に喜ぶハンセン。 さらにはファンクスに対して暴行を働きます。 ここに現れたのがジャージ姿の ジャイアント馬場とジャンボ鶴田。 馬場は怒りの表情でハンセンに脳天チョップを叩き込み、鶴田と共にこの「外敵」を追い払いました。 馬場は控え室でインタビューに答え、怒り心頭の表情で 「ふざけるんじゃないよ、人のウチ土足で入って来て手を出したりされたらたまったもんじゃないですよ。 来るんなら堂々と…」と語り、来年早々のハンセンとの直接対決を宣言しました。 当時、興行人気、TV視聴率でも全日プロを圧倒し始めていた猪木 新日プロが、馬場 全日プロ壊滅を狙い、人気ガイジンのブッチャーを引き抜き。 試合会場にいきなり現れ、猪木に挑戦する、という仕掛けで大きな話題を呼びます。 馬場も黙っておらず、すぐに タイガー ジェット シンを引き抜き返します。 しかし、この頃シンは猪木との長年の抗争もマンネリ化し、猪木のライバルの座もハンセンに奪われていましたので、新日プロ側もファンも「まぁシンならいいか…」ぐらいの感覚でした。 しかし馬場の恐ろしさはこんなものでは済まないのです。 報復の真の狙いはハンセンだったのでした。 馬場は師匠であるファンクスを通じてハンセンと接触。 盟友、ブロディの存在もありハンセン本人との移籍交渉がまとまります(当然、新日プロ側は寝耳に水です)。 年末の新日プロ、MSGタッグリーグ戦に参戦したハンセンは帰国せずにそのまま日本に残り、乱入、のテイで全日プロへ移籍、参戦するという驚愕のシナリオ。 そのお披露目の場こそが、この蔵前国技館での大一番だったのです。 この引き抜き工作は水面下で行われたため、当時、事前には一切マスコミもリークせず、ファンはド肝を抜かれ、劣勢だった全日プロは一気に攻勢へと転じる出来事となりました。 ブッチャー(のほかに マードック、タイガー戸口も)を引き抜いたために、シンだけでなくエースガイジンのハンセンまで失った新日プロは、開催直前のIWGPを前に大ダメージ。 この引き抜き合戦は馬場 全日プロの圧勝に終わります。 その頃は必殺のウェスタンラリアットも誕生前、ハンセンは単なる不器用なパワーファイターでした。 その後、ニューヨークMSGでWWFの大スター、 ブルーノ サンマルチノと激闘を繰り広げますが、試合中のアクシデントでサンマルチノに怪我を負わせてしまい、新日マットへ転戦。 ここで 猪木のライバルとして開花します。 必殺のウェスタン ラリアートを武器に、度重なるNWFベルトをかけた激闘、そして アンドレとの田園コロシアム決戦などで実力覚醒と共に人気も爆発。 「ブレーキの壊れたダンプカー」の異名で新日マットに欠かせない、エース ガイジンとなりました。 そんなハンセンを引き抜いた全日プロと日本テレビは、 「不沈艦」の新ニックネーム、いまもバラエティの乱闘シーンで必ずかかる有名なテーマ曲 「サンライズ」を与え、阿修羅原や大熊元司といった中堅レスラーを瞬殺するPVまで作った大キャンペーンを張ります。 ついにはレギュラー放送だけでなくスポーツ番組 「独占!スポーツ情報」で特集が組まれる程で、小中学生のプロレスファンの間ではラリアットが大流行。 ちなみに…新日マットでは長く「ラリアート」と呼称されていましたが全日マットではオリジナルの発音に忠実に、と説明つきで「ウェスタン ラリアット」となりました。 スタン ハンセンの人気は全日マット移籍で加熱して大爆発。 対するハンセンは33歳。 誰の目にも馬場は全盛期を過ぎ、もはやプロレスラーとしての強さはなく、巧さだけで勝負していました。 一方のハンセンは、試合開始からセオリー無視のフルパワー、猪突猛進が持ち味で、試合巧者の猪木ですら持て余し気味、ライバル抗争の後半は返し技で勝つのがやっと、という、まさに全盛期です。 ブッチャーを抜かれた報復にシンだけでなくハンセンを引き抜いたのはプロモーター、社長としては良いとして、自身がプロレスラーとして対峙するには、危険過ぎる相手では?というのが、当時のほとんどのプロレスファン、マスコミの見方でした。 猪木のライバル、ハンセンを自身のリングに上げて、間接的に「自分の方が猪木より上」と主張するのは、かつてのビル ロビンソン、大木金太郎戦など馬場の常套手段でしたが、当時小学生の私ですら、ハンセンにはプロモーター馬場への「忖度」「接待」などは通じない暴れん坊で、不器用にガンガン攻めて、間もなにもあったもんじゃない暴風ファイトが持ち味、もし仮にハンセンが馬場に「負けてあげた」りしたら…逆にハンセン自身の商品価値が一気に暴落してしまう、と感じていました。 プロレスですから、事前に勝敗を決めておいたとしても、馬場が猪木を超える名勝負をハンセンとやる、というイメージはまったくもって湧かないのです。 当時の馬場のライバルはブッチャーにせよハーリー レイスにせよ、緩急はありますが基本「ゆっくリズム」なスタイル。 馬場の得意な「スケールの大きな」プロレスと噛み合うとは思えません。 それだけに、馬場がいいところなくズタボロにやられる、下手したらアクシデントで大怪我させられて選手生命の危機、という想像しかできないのです。 そしてそれは、アンチ馬場、猪木信者だけではなく、馬場のファン、馬場派のマスコミですら「今度という今度は馬場の圧倒的不利」が、大勢を占めていました。 この試合で馬場は王座陥落、はたまた引退も?という見方が大勢で、なかには「馬場がハンセンにズタボロにされる、殺されるところを見に来た」といった、実に残酷な期待が館内に(TVの前も)充満していました。 試合開始のゴング、ここで馬場はいきなり16文キックの奇襲を見せます。 そしてその後、馬場は徹底した左腕封じ、腕殺しを続けます。 時にはまんま猪木の技まで使って、遮二無二に攻め続けます。 これはある意味、予想された戦法ではありますが、予想外だったのは、あの圧倒的パワーを誇る、ハンセンが押されているのです。 それも、決して「やられてあげている」のではなく、時折、得意の暴風ファイトで反撃を試みるも、その都度、切り返しにあい、キリキリ舞いしている印象なのです。 私は、この試合で初めて、馬場の武器はインサイドワーク(プロレスの巧さ)だけではなく、圧倒的な体格、スケールにある事を思い知りました。 腕をとる、腕を決める、スタンドでもグラウンドでも、馬場のサイズはハンセンを凌駕し、そこにベテランならではのインサイドワークが加わると、あの暴れん坊のハンセンが何もできないのです。 もちろん、少しでも隙を見せれば、ハンセンの猛スピードによる強烈な打撃一発でも喰らえば、馬場の戦略は崩れてしまいます。 しかし、この日の馬場はスピードでもハンセンに引けを取らないのです。 16文、逆水平、脳天唐竹割り、かわず掛けからのかわず落としなど、普段観客から失笑されるスローモーな技の数々が、見たことのない的確さとスピードで、ハンセンにダメージを与えていくのです。 「そんなバカな」というのが、正直な感想でした。 この頃には猪木信者になりつつあり、「馬場と猪木を比べるな」とさえ思っていた私は、何故に猪木が馬場を目の敵にして、馬場はそれにも悠然と構えているのか、が初めて、なんとなく理解できた気がしました。 「馬場ってこんなに強いの?」 試合後半、遂にハンセンの必殺ウェスタン ラリアットが火を吹きます。 しかし、長身の馬場にはさすがのハンセンも振り下ろす事ができず、威力は今ひとつに思えました。 そして両者はそのまま場外へ。 結果は当時の全日プロお馴染みの「レフェリー ジョー樋口失神」からの「12分39秒 両者反則」裁定となりました。 この試合はこの年のプロレス大賞 年間最高試合も受賞し、久々に見せた「強い馬場」は語り草となりました。 後に天龍のインタビューで、この試合を並んで観ていたジャンボ、天龍の2人の全日プロのメインイベンターも、当時我々とまったく同じ感想だった、というのを知って、驚きました。 事実、ジャイアント馬場の全盛期は1960年代で、早くも1970年代には下り坂でした。 「もう終わりだ」と何度も言われ、「今度こそ終わり」とされたこの大一番で、驚異の強さを発揮したジャイアント馬場は、やはりタダモノではなかったのです。 ハンセンの抗争相手はファンクス、鶴田、天龍から三沢、川田、小橋ら超世代軍まで続き、天龍や馬場、アンドレとはタッグ結成もしました。 ハンセンは引退する2001年まで、全日プロ、日本マット界のエースガイジンとして、実に20年に渡って活躍し続けました。 ちなみに…馬場とハンセンのシングルマッチでの直接対決は実に12回を数え、対戦成績は4勝4敗4分け ピンフォール決着はハンセン2勝、馬場1勝 とまったくの五分でした。 完 【秘蔵映像公開!】スタン ハンセン ウェスタン ラリアット 200連発!!!!

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野球の乱闘シーンで流れる、♪「デーンデンデンデーンデンデンデーン」。

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net 【和田京平 王道を彩った戦士たち】全日本プロレスの和田京平名誉レフェリー(65)が往年の名レスラーについて語る「王道を彩った戦士たち」。 ハンセンがいなけりゃ(三沢光晴ら)四天王の時代はなかったんじゃないかな。 80年代には(ジャイアント)馬場さんやジャンボ(鶴田)、天龍(源一郎)さんとガンガンやってたでしょ。 90年代に三沢たちが出てきたら「何だこの小僧ども?」って気持ちだったと思う。 逆に「俺の居場所がなくなるのか?」という焦りもあった。 だから三沢や小橋(建太)にガンガン当たって、四天王も強くなった。 俺にもなかなかレフェリーをやらせてくれなかったね。 「キョーヘイ? ノーサンキュー」って。 ジョー(樋口)さんを信頼してたから。 毎年全シリーズに出ていたから、当時でも年間1億円は稼いでいたでしょう。 俺がやっと握手してもらえたのは(2000年に)三沢たちが出て行った後。 「なんだ、お前は残ったのか」って笑いながら握手してくれた。 それぐらい怖かった。 印象に残るのは小橋にブルロープを奪われたら怒り狂って、逆にイスでぶん殴った試合(95年8月23日、大館)だね。 小橋の左腕がザックリ切れて骨まで見えているのに、ブルロープで殴り続けてお互いのスイッチが入っちゃって。 あれはすごかった。 あと三沢たちが出て行った後の大阪だったかな。 いつものようにブルロープ回して入場したら、最前列のおばあちゃんに当たって倒れちゃって。 俺が目で合図したら「フィーッ!」ってポーズ決めた後に、リングを下りて日本語で「ゴメンナサイ」って謝ってた(笑い)。 馬場さんがつくった全日本だけど、ハンセンがいなかったらここまで続かなかったかも。 まだまだ元気だし、来日したらまた会いたいね。 l l ,.... ウィーーーーーーーーー!!!!! i、 j' ヾヽ、! ヽ l ヾヽ l. ヽ ノ_,... ---、...... ヽ l j jiiiiiiiiiii、 イi ,.. イ ヽ ヽ、. l jil''""ヾlli. ヽ ,..

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サンライズ

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「ずっとウィー!だと思ってた」 テキサス生まれのハンセンさんはアメリカでキャリアを積み、1975年に初来日。 「ウエスタン・ラリアット」を武器にスターダムにのし上がり、アントニオ猪木やアンドレ・ザ・ジャイアントとの死闘はプロレスファンの語り草になっている。 リングインや勝利した際、人差し指と小指を立てた右腕を振り上げ、「ウィー!」と叫ぶ決めポーズはプロレスファンでなくともおなじみだろう。 しかし、この代名詞とも言える「ウィー!」ポーズ。 ハンセンさん自身が、 「あれは『ユース』と叫んでいるんだ」 と明かしたのだ。 2015年10月7日放送の「水曜日のダウンタウン」(TBS系)に出演し、「俺が日本に来た当時、まわりは年上ばかりで俺が一番若い世代だったんだ」と説明。 「俺たち若者が上の世代を食ってやるぞ」という思いを「ユース(youth)」に表していたのだという。 多くの視聴者にとっては、まさに衝撃。 ツイッターなどネットには 「こりゃ衝撃だわ」 「ウィーって言ってなかったのか、ハンセン... 」 「ずっと数十年ウィー!だと思ってたよ」 という書き込みが相次いだ。 当時のスポーツ紙でも見出しに「ウィー!」の文字が躍っていて、勘違いしても仕方ない。 本当に「ユース」と言ってるのか? なかには「絶対ウィーって言ってるよ?」と疑う人もいた。 確かに映像を見る限り、来日当初は「ユース!」と言っているようだが、晩年は「ウィー!」としか聞こえない。 番組では本当に「ユース」と言っているのか突っ込まれていたが、「イエス、オフコース。 最初からずっとユースと言っているよ」と答えていた。 多くの人が驚く一方、プロレスファンからは、 「プロレスファンからは結構昔から有名な話なんですけどね」 「いったい何年前の話題いまさら本人にさせてるんだか」 という反応もあった。 実際に2012年のイベントなどで同様の説明をしたことがあったのだ。 一部プロレスファンを除き、衝撃を持って受け止められた「ウィー!」の真実。 ハンセンさんがリングを降りて10年が以上たった今、あらためて日本プロレス界に残した足跡の大きさが分かったと言えるだろう。

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