明智 光秀 側室。 明智光秀の妹 御妻木殿は信長の側室だった?

明智光秀の妻「妻木煕子」~光秀はなぜ愛妻家と言われるのか

明智 光秀 側室

光秀は煕子存命中に側室を置いていた? さて光秀には「正室を愛し、生涯側室を置かなかった」という伝説があります。 残念ながらこれは真実ではありませんが、光秀は煕子存命中 1576年まで は一切側室を置かず、煕子が亡くなってしまった後妻木殿 おそらく煕子の妹 、ついで喜多村保光の娘を側室としています。 しかし「光秀は残念ながら、煕子存命中にも側室を置いていたのだ」という説があるのです。 これは「土岐系図」に側室の存在が示唆されており、更に「喜多村家明智系図」を組み合わせることにより、煕子が亡くなる前に側室の子が生まれているという解釈が出てくることによります。 側室の名前とその子供を示すと…… 喜多村保光の娘……子息は喜多村保之 原仙仁の娘……子息は筒井定次妻秀子・川勝丹波守 秀氏 妻・僧不立 土岐系図ではその他に五人 不明……井戸治秀の妻 以上三名が、光秀の側室として挙げられているのです。 このうち喜多村保光の娘との婚姻関係は、正室煕子の死後のことであることは明らかですが、他二名との婚姻関係は、子息の年齢などから判断すると、正室煕子の存命中のことであると思われ、それにより「光秀は残念ながら、煕子存命中にも側室を置いていたのだ」との説が浮上しているのです。 人によりその解釈は様々でしょうが、自分としてはこの説はどうかと思われます。 まず側室の一人、原仙仁の娘ですが、原仙仁という人物は公家であると明記されています。 しかしこの原仙仁という人物、どんな人物なのかが全く不明です。 それだけならまだいいのですが、そもそも公家に原姓を持つ家は、残念ながら存在しないのです。 更に、筒井定次の妻秀子は、一般には織田信長の末娘 光秀の養女となって嫁いだ と言われていますし、土岐系図に記されている他五人の子供たちは、その経歴がかなりあやふやであり、 例えば秀寿丸については細川家に仕えたとも僧になったとも、浅野内蔵助は大石内蔵助の祖父であると言われている 、本当に実在していた人物なのかが疑わしいというのが正直なところです。 こう考えると、この側室が生んだ実子の中で実在が確実であると言えるのは、「川勝丹波守の妻」と、「僧不立」だけと言ってもよいでしょう。 とすると、この二人は正室煕子が生んだという可能性も考えられるのではないでしょうか。 ここで一つ疑問となるのは「ではなぜわざわざ、存在しない公家の娘をわざわざ側室に書き加えたのだろうか?」ということです。 これはおそらく、光秀の名声を上げるためでしょう。 戦国時代において、公家の娘を妻に迎えることは、その家の名声を高めることとなる行為でした 例えば甲斐のなどが公家の娘を正室に迎えています。 また光秀は教養が高いこと・かつて朝廷との交渉をと共に任されていたことから、公家との交流も非常に深いと当時から思われていました 実際にはそれほど深くはないのですが。 ゆえに、光秀に公家から迎えた側室がいるという状況を作ることは決しておかしくないことですし、また光秀自身の名声を間接的にですが高めることにつながるのです。 つまり、「明智家の名声を高めるために、土岐系図に公家の側室がいると書き込んだ」と考えられるのです。 さて、それではもう一人、井戸治秀の妻を生んだ側室 名前も出自も一切不明 について考えてみましょう。 ちなみに井戸治秀とは、大和の国人だった井戸良弘の次男で、生没年は不明、しかし徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えたという人物です。 まず自分なりの結論を先に述べると、この側室はおそらく妻木殿 煕子の妹 だと思っています。 そうなると当然「つまりこの娘が生まれたのは早くても1577年〜78年、つまり本能寺の変直前でも 5歳くらいではないか。 そんな歳で井戸治秀に嫁いだのか」という反論が出てくるでしょう。 それを解決するには、まず他の光秀の娘達について見てみる必要があります。 長女は荒木村次・および明智秀満に嫁ぎ、次女は織田信澄に嫁ぎ、三女は細川忠興に嫁ぎ、養女秀子は筒井定次に嫁いでいます。 こう見てみると、光秀の娘達はことごとく「配下および織田政権にとって重要な家に嫁いでいる」ことが分かります 織田政権内の光秀の位置づけを考えれば当然です。 ところが、この側室の娘は井戸家 もともと大和の国人で、この時期は織田信長に仕えていた小大名 という、言い方が悪いですが織田政権にとってはどうでもいい家に嫁いでいるのです。 織田政権下において、光秀の実の娘がこのような家に嫁ぐ理由は全くありません 実女と明記されているので実の娘と言うことは間違いない。 ではなぜ、この娘は井戸家に嫁ぐことになったのでしょうか? 自分としては、次のような出来事があったのだと思います。 この娘は1578年ごろ、光秀の側室妻木殿の娘として生まれました。 ところが1582年、光秀がの変を起こし、山崎の戦いにおいて羽柴秀吉に敗れてしまいます。 明智一族はに逃げ込みますが、羽柴軍が城を包囲、彼らは自害する道を選びました。 しかしまだ幼いこの娘と、を道連れにすることには抵抗があったのでしょう。 この娘と保之はから脱出し、保之の実家であった喜多村家に入りました ちなみに保之は確実に喜多村家に入っています。 こうしてこの娘もまた、喜多村家の一員として育てられていくことになるのです。 そうして時が流れたとき、井戸家は徳川家康に仕えていました。 喜多村家もまた徳川家康に仕えていた家であったので、二つの家は井戸治秀とこの娘との婚姻により、結びつきを深めたのです。 ちなみに「この娘を1578年ごろの生まれとすると、井戸治秀との年齢が離れすぎるのではないか?」と危惧する方もいるでしょうが、治秀の兄覚弘が1556年の生まれであること、徳川家光の代まで治秀が徳川家に仕えていたことを考えると、だいたい治秀の生まれは1570年ごろではないかと推測できます。 そうするとそれほど年齢は離れていないので、二人が婚姻するということに関しても、問題はないでしょう。 最後に問題になることといえば、「なぜ土岐系図の作者は、側室の名前が分からなかったのか? 不明としたのか 」ということでしょう。 これはおそらく、正室煕子と側室妻木殿を作者が混同してしまったせいだと考えられます。 例えば兼見卿記にも煕子死後の側室は「妻木氏」と出ているため、当時からこの側室が「妻木殿」などと呼ばれていたことは明らかです。 しかし一方で、正室煕子もまた妻木氏の出であり、彼女もまた一般に「妻木殿」と呼ばれていたことは十分考えられます。 土岐系図の作者は、光秀の側室について調べ、その名前が「妻木殿」であることを確認したのでしょう。 しかし一方で、正室の名前もまた「妻木殿」。 「正室の名前も側室の名前も妻木殿とはどういうことだ?」作者がこのように混乱したことは想像に難くありません。 そして「側室がいたことは確かだが、「妻木殿」はおそらく誤伝であろう。 調べても名前が分からないので、不明としておこう」と言う考えに至ったと思われるのです。 このように、光秀の子息については、光秀が煕子存命中に側室を置いていたという説を取らずとも、十分説明できるのです。

次の

明智光秀の妻「妻木煕子」~光秀はなぜ愛妻家と言われるのか

明智 光秀 側室

Contents 目次• 【 】 ( )は、 安土桃山時代に活躍したとされる女性です。 の実妹もしくは義妹と伝わります。 御ツマキについては史料ごとに 姉となっていたり、 妹のなっていたりと表記のゆれがあります。 それらの記述が全て同一人物を指すのか 否かは詳細ははっきりとはしていません。 けれども、 もしくは その正室である の近親者として、 に近い位置にあった女性が 天正年間に活動していたものと 推察されています。 また、この時代の女性の名称として、 嫁ぎ先でも、実家或いは出身地の 名称などで称されていました。 【「オツマキ」が登場する史料】 【1.「戒和上昔今禄」】 「戒和上昔今禄」、 天正4年(1576)6月28日の条に 「惟任妹ツマ木殿ヲ以テ被仰出」 とあります。 「戒和上昔今禄」は、 奈良の興福寺の僧が記した、 奈良の興福寺と東大寺との 間の争いに関する裁判の記録とのことです。 「惟任」は明智光秀のことを指しています。 「惟任日向守光秀」といいます。 この時、惟任の妹であるツマ木が の使者として奈良へ出向き、 興福寺と東大寺の調停役を務めたこと が書いてあるそうです。 お妻木の仲介によって話がまとまると、 兄である明智光秀が実務にあたっています。 これは織田信長の記録の中で、 唯一の女性使者の記録でもあるそうです。 【2・「言経卿記」】 「言経卿記」とは 公家の山科言経(やましなときつね)日記です。 天正7年(1579)5月2日の条に、 に来た織田信長の所へ、 山科言経が御機嫌伺いに行きました。 織田信長は、顔面に腫れ物が出来ていたため、 面会は出来ませんでした。 そこで であるツマキ等に 会って贈り物をしたとのことです。 「ツマキ」が 織田信長の女房衆であることが 確認出来る史料であるとのことです。 【3.「兼見卿記」】 「兼見卿記」とは、 吉田神社の神主である の日記です。 天正7年9月25日条には、 「惟任姉妻木在京之間罷向、 双瓶・食籠持参、他行也、渡女房館皈」 と記されているのが確認できているそうです。 吉田兼見が、 明智光秀の姉である妻木を訪ねた時に、 双瓶 (一 対 の酒 徳利)、 食籠 食物を盛る器 を持参しましたが、 出かけて留守だったので、 女房館に預けて帰ったという内容とのことです。 なお、この日記では姉と記されていますが、 これは妹の書き間違いだと現在では推察されています。 【4.「多聞院日記」】 「多聞院日記」とは、 興福寺多聞院の僧の日記のことです。 天正9年(1581年)8月20日の条で、 「去七日八日ノ比欺、 惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキ ヨシ也、向州無比類力落也」 と記されているそうです。 これを現代文に訳すると、 去る8月の7日か8日頃か、 光秀の妹「御ツマキ」が死去した。 信長は一段ノキヨシといい、 向州は (明智光秀のこと、日向守を略して向州ともいう) 比べものにならないほど力を落としたといいます。 【「一段ノキヨシ」】 この「多聞院日記」のなかの記述にある 「一段ノキヨシ」の解釈をめぐって、 とある論議が成されています。 それはツマキが 織田信長の重要な側室で あったのではないかということです。 「向州無比類力落也」は、 明智光秀がたんに肉親である 妹(又は義妹)の死を悲しむだけではなく、 妹ツマキの死によって、 今後の織田信長との関係に 大きな不安を感じる状況になったことを 意味するのではないかと推察されているのです。 明智光秀の妹の「お妻木」の死後、 10ヶ月後に、 が起きています。 【竹生島参拝における女房成敗】 お妻木が織田信長の女房衆であることは 既に判明しています。 お妻木が亡くなったとされる 天正9年(1581年)8月7日或いは8日の 4ヶ月ほど前に、 織田信長は、 の女房衆たちを成敗しています。 「 」によりますと、 天正9年(1581年)4月10日に 織田信長は小姓5~6人を連れて 琵琶湖の竹生島に参拝に行ったそうです。 安土城から竹生島までは往復で 120キロの距離との事です。 安土城の女房達は、この遠路であるので 織田信長が恐らくは にて1泊するものと 考えてしまったようです。 また、史料には、 「長浜城で1泊する」という旨を告げて 参拝したとあります。 恐らくは日ごろは激務であったことでしょうから、 チャンスとばかりにハネを伸ばし、 出かけてしまった女房達がいました。 ですが、織田信長は何と日帰りで 安土城に帰還したのでした。 まあ、恐らくは船で出立したことと思います。 天正9年といえば、 既に織田信長の琵琶湖船上ネットワークが 確立していた頃ですね。 織田信長にとっては、 船上にてゆっくりできたのかもしれませんね。 それ故、何も長浜城で1泊しなくてもいいと 判断したのかもしれません。 現代風にいえば「琵琶湖クルージング」でしょうか。 そうすれば、日帰りで 帰還できなくもなかったことでしょう。 まあ、女房達の考えが甘かったといえば それまでですが、 きっと休暇などなかったのかもしれません。 何せ「働き方改革」など全くなかった時代です。 まして超真面目で 常に何かしら動いていないと 気持ちが落ち着かなかったとされている織田信長は、 周囲にも自分と同じようにすることを 促していたとも言われています。 日帰りで帰還した織田信長は、 安土城の女房達の有様に大激怒したそうです。 そして、自分の任務を怠った 女房達を縛り上げます。 中には、桑実寺に出かけている 女房達も居たそうです。 なお、桑実寺は、 安土山に隣接している観音寺山の 中腹にあるお寺とのことです。 安土城とは思いっきり近い場所にありますね。 桑実寺に出かけていた女房達は、 桑実寺の長老に助けを求めたそうです。 ですが、このことが、 織田信長の怒りの炎に 油を注いだ結果となり、 仕事をさぼった女房衆と長老を 「御成敗」したとのことです。 「信長公記」には長老との記載ですが、 この長老とは、 一般的には桑実寺の高僧たちとされています。 また、桑実寺には、この事件の記録がないことから、 女房衆の管理監督者である男性の家臣 ではないか?とされているとのことです。 【「御成敗」の解釈について】 桑実寺の記録には、 女房達の御成敗の記録はないそうです。 また、この時代の「御成敗」は 必ずしも「死罪」ではなかったそうです。 織田信長は規則や道理に関しては かなり厳しい人物であったと伝わっています。 なので、いくら自分が出かけて留守であるからとはいえ、 役目をさぼっていた者には、 「厳罰」に処するのは極めて当たり前なのでしょう。 綱紀粛正(こうきしゅくせい)ということでの御成敗。 綱紀粛正とは、国家の規律や秩序、 また政治のあり方や 政治家・役人の態度を正すことです。 武家社会において、国や領地を治めるうえでの 規則である「綱紀」は かなり重んじられていました。 とはいえ、「綱紀粛正」だとして、 いちいち「死罪」にしては、 人材がいくらあっても足らなくなります。 現在なら、働きすぎて、 ちょっとの息抜きもとれないと訴えがあれば、 処罰の対象は上司である織田信長に なりますけどね・・。 「綱紀粛正」の対象となった女房達に 「お妻木」が含まれていたか 否かはわかりません。 ただ、女房達の役目も、 普段は激務だったと考えることができます。 【お妻木と信長】 そして、「お妻木」は 織田信長の唯一の記録に残っている 女性使者であるので、 相当の信頼があり、 また優秀であったことでしょう。 天下統一を目前に控えて、 業務もより一層ハードになっていったと思うのです。 そうした織田家を不休で支えていたことでしょう。 そんな意味で 「一段ノキヨシ」であったことでしょうね。 織田信長と側室のような、 個人的な関係があったか否かは 今となっては全くわかりませんが、 「信頼関係」の一つの証として、 そのような関係もあったかもしれませんね。 織田信長の好みとして、 美女であることは勿論の事、 頭が冴えていることも好みの一つであったとも 言われているくらいですから。 明智一族の女性は美形が多いとも 伝わっていましたし、 才色兼備であったと考えられます。 現代風に言うならば、 社長秘書、に近い役職だったのかもしれません。 【お妻木と光秀】 明智光秀にとっても、 お妻木は非常に頼れる妹でした。 竹生島事件の通り、 この頃の織田信長は、 ころころと気持ちや伝達が変化して、 立腹しやすく、 物事などや家臣たちの 好き嫌いも一層激しくなっていったと 言われています。 また天下統一を目の前にして、 織田家臣団も激務で 主君の織田信長の指令や伝達も 変わりやすく頻繁にあったことでしょう。 そうした主君の織田信長の近くで 仕えているお妻木が明智光秀に もたらしてくれる情報は 常に重要かつ有益なことだったのでしょう。 お妻木は織田信長だけではなく、 兄(義兄)である 明智光秀の活躍を支えてくれた 大切な一人でもありました。 また、この頃は既に 正室の煕子は他界していました。 お妻木が義理の妹であるとした場合、 その面影などに、 どこかに正室の煕子と 重ねてみていたのかもしれません。 だからこそ、「お妻木」の死は、 公私ともに明智光秀にとって深い影を落とし、 落胆させていったものだと 推察することができます。 【桑実寺】 桑実寺(くわのみでら)は、 滋賀県 市安土町桑実寺にある天台宗の寺院。 山号は繖山(きぬがさやま)です。 本尊は薬師如来、開山は定恵。 別名は桑峰薬師と称されています。 【創建】 標高433メートルの観音寺山の中腹にあり、 西国三十三所観音霊場の32番札所である 観音正寺へと登る途上に位置しています。 寺伝によりますと、 天智天皇の四女、 阿閉(あべ)皇女(元明天皇)の 病気回復を僧に祈祷させていました。 すると、琵琶湖から薬師如来が降臨し、 阿閉皇女の病気を治して去ったということです。 それに感激した天智天皇の勅願により、 藤原鎌足の長男、定恵が、 白鳳6年(677年)に 創建したと伝えられています。 寺名は、定恵が唐から持ち帰った 桑の実をこの地の農家にて栽培し、 日本で最初に養蚕を始めたことに由来しているそうです。 【室町幕府】 1532年には室町幕府12代将軍 が、 ここに仮の幕府を設置しています。 のちに15代将軍 も滞在していました。 【安土城】 一時期荒廃していましたが1576年、 安土に居をかまえた織田信長によって保護されていました。 【伽藍】 【本堂】 国の重要文化財 室町時代初期再建、 桁行五間・梁間六間・一重・入母屋造・檜皮葺き 【鎮守三社】 天和元年(1681年)建立 【大師堂(経堂)】 大正2年(1913年)再建 【地蔵堂】 地蔵堂は明和6年(1769年)11月再建 【鐘楼】 寛永21年(1644年)2月建立。 但し、雨天時は文化財保護の観点から 中止するとの事です。

次の

麒麟がくる明智光秀の正室は煕子で駒との恋の行方は?菊丸も恋の予感

明智 光秀 側室

光秀は煕子存命中に側室を置いていた? さて光秀には「正室を愛し、生涯側室を置かなかった」という伝説があります。 残念ながらこれは真実ではありませんが、光秀は煕子存命中 1576年まで は一切側室を置かず、煕子が亡くなってしまった後妻木殿 おそらく煕子の妹 、ついで喜多村保光の娘を側室としています。 しかし「光秀は残念ながら、煕子存命中にも側室を置いていたのだ」という説があるのです。 これは「土岐系図」に側室の存在が示唆されており、更に「喜多村家明智系図」を組み合わせることにより、煕子が亡くなる前に側室の子が生まれているという解釈が出てくることによります。 側室の名前とその子供を示すと…… 喜多村保光の娘……子息は喜多村保之 原仙仁の娘……子息は筒井定次妻秀子・川勝丹波守 秀氏 妻・僧不立 土岐系図ではその他に五人 不明……井戸治秀の妻 以上三名が、光秀の側室として挙げられているのです。 このうち喜多村保光の娘との婚姻関係は、正室煕子の死後のことであることは明らかですが、他二名との婚姻関係は、子息の年齢などから判断すると、正室煕子の存命中のことであると思われ、それにより「光秀は残念ながら、煕子存命中にも側室を置いていたのだ」との説が浮上しているのです。 人によりその解釈は様々でしょうが、自分としてはこの説はどうかと思われます。 まず側室の一人、原仙仁の娘ですが、原仙仁という人物は公家であると明記されています。 しかしこの原仙仁という人物、どんな人物なのかが全く不明です。 それだけならまだいいのですが、そもそも公家に原姓を持つ家は、残念ながら存在しないのです。 更に、筒井定次の妻秀子は、一般には織田信長の末娘 光秀の養女となって嫁いだ と言われていますし、土岐系図に記されている他五人の子供たちは、その経歴がかなりあやふやであり、 例えば秀寿丸については細川家に仕えたとも僧になったとも、浅野内蔵助は大石内蔵助の祖父であると言われている 、本当に実在していた人物なのかが疑わしいというのが正直なところです。 こう考えると、この側室が生んだ実子の中で実在が確実であると言えるのは、「川勝丹波守の妻」と、「僧不立」だけと言ってもよいでしょう。 とすると、この二人は正室煕子が生んだという可能性も考えられるのではないでしょうか。 ここで一つ疑問となるのは「ではなぜわざわざ、存在しない公家の娘をわざわざ側室に書き加えたのだろうか?」ということです。 これはおそらく、光秀の名声を上げるためでしょう。 戦国時代において、公家の娘を妻に迎えることは、その家の名声を高めることとなる行為でした 例えば甲斐のなどが公家の娘を正室に迎えています。 また光秀は教養が高いこと・かつて朝廷との交渉をと共に任されていたことから、公家との交流も非常に深いと当時から思われていました 実際にはそれほど深くはないのですが。 ゆえに、光秀に公家から迎えた側室がいるという状況を作ることは決しておかしくないことですし、また光秀自身の名声を間接的にですが高めることにつながるのです。 つまり、「明智家の名声を高めるために、土岐系図に公家の側室がいると書き込んだ」と考えられるのです。 さて、それではもう一人、井戸治秀の妻を生んだ側室 名前も出自も一切不明 について考えてみましょう。 ちなみに井戸治秀とは、大和の国人だった井戸良弘の次男で、生没年は不明、しかし徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えたという人物です。 まず自分なりの結論を先に述べると、この側室はおそらく妻木殿 煕子の妹 だと思っています。 そうなると当然「つまりこの娘が生まれたのは早くても1577年〜78年、つまり本能寺の変直前でも 5歳くらいではないか。 そんな歳で井戸治秀に嫁いだのか」という反論が出てくるでしょう。 それを解決するには、まず他の光秀の娘達について見てみる必要があります。 長女は荒木村次・および明智秀満に嫁ぎ、次女は織田信澄に嫁ぎ、三女は細川忠興に嫁ぎ、養女秀子は筒井定次に嫁いでいます。 こう見てみると、光秀の娘達はことごとく「配下および織田政権にとって重要な家に嫁いでいる」ことが分かります 織田政権内の光秀の位置づけを考えれば当然です。 ところが、この側室の娘は井戸家 もともと大和の国人で、この時期は織田信長に仕えていた小大名 という、言い方が悪いですが織田政権にとってはどうでもいい家に嫁いでいるのです。 織田政権下において、光秀の実の娘がこのような家に嫁ぐ理由は全くありません 実女と明記されているので実の娘と言うことは間違いない。 ではなぜ、この娘は井戸家に嫁ぐことになったのでしょうか? 自分としては、次のような出来事があったのだと思います。 この娘は1578年ごろ、光秀の側室妻木殿の娘として生まれました。 ところが1582年、光秀がの変を起こし、山崎の戦いにおいて羽柴秀吉に敗れてしまいます。 明智一族はに逃げ込みますが、羽柴軍が城を包囲、彼らは自害する道を選びました。 しかしまだ幼いこの娘と、を道連れにすることには抵抗があったのでしょう。 この娘と保之はから脱出し、保之の実家であった喜多村家に入りました ちなみに保之は確実に喜多村家に入っています。 こうしてこの娘もまた、喜多村家の一員として育てられていくことになるのです。 そうして時が流れたとき、井戸家は徳川家康に仕えていました。 喜多村家もまた徳川家康に仕えていた家であったので、二つの家は井戸治秀とこの娘との婚姻により、結びつきを深めたのです。 ちなみに「この娘を1578年ごろの生まれとすると、井戸治秀との年齢が離れすぎるのではないか?」と危惧する方もいるでしょうが、治秀の兄覚弘が1556年の生まれであること、徳川家光の代まで治秀が徳川家に仕えていたことを考えると、だいたい治秀の生まれは1570年ごろではないかと推測できます。 そうするとそれほど年齢は離れていないので、二人が婚姻するということに関しても、問題はないでしょう。 最後に問題になることといえば、「なぜ土岐系図の作者は、側室の名前が分からなかったのか? 不明としたのか 」ということでしょう。 これはおそらく、正室煕子と側室妻木殿を作者が混同してしまったせいだと考えられます。 例えば兼見卿記にも煕子死後の側室は「妻木氏」と出ているため、当時からこの側室が「妻木殿」などと呼ばれていたことは明らかです。 しかし一方で、正室煕子もまた妻木氏の出であり、彼女もまた一般に「妻木殿」と呼ばれていたことは十分考えられます。 土岐系図の作者は、光秀の側室について調べ、その名前が「妻木殿」であることを確認したのでしょう。 しかし一方で、正室の名前もまた「妻木殿」。 「正室の名前も側室の名前も妻木殿とはどういうことだ?」作者がこのように混乱したことは想像に難くありません。 そして「側室がいたことは確かだが、「妻木殿」はおそらく誤伝であろう。 調べても名前が分からないので、不明としておこう」と言う考えに至ったと思われるのです。 このように、光秀の子息については、光秀が煕子存命中に側室を置いていたという説を取らずとも、十分説明できるのです。

次の