市川いっかさつがい。 さちぎくブログ: 6月 2019

【長男、もんたいちお】特製つけ麺 (千葉県市川市八幡) 第1162回

市川いっかさつがい

今日は少し遠出して、直入町の長湯温泉まで行って来ました。 無色透明の発砲炭酸泉と濁りがある土類系炭酸水素塩泉が有名な、 別府に並ぶ大分県を代表する温泉の宝庫。 長湯温泉は「ラムネ温泉」「ながの湯」「長生湯」と、ここは入っておかねばという所は すでに制覇。 でもここだけ残っていたのだ。 少し離れた川の上流から撮った全景。 芹川に面した正六角形の塔をもつ 面白いつくりの建物。 ライトアップされた夜もまた趣きがあります。 料金は500円。 中はドイツ建築風で板張り。 カフェ、畳の休憩所もあり。 浴場は玄関(2階にあたる)から青い壁の螺旋階段を降りた1階と上がった3階。 男女日替わり?週替わり?で今日は1階が女性用でした。 広いです。 脱衣棚のほか、10円のロッカーあり。 ドライヤーも完備。 さて浴場です。 湯船は3つ。 透明度は30cmぐらい。 どれも飲泉可で、飲むと鉄臭さと若干の塩味、そしてかすかに炭酸のシュワシュワ感。 長湯温泉のシンボル「ガニ湯」の形に似た、少しぬる目の湯船につかっていると 隣の川にやってくるセグロセキレイのつがい、キセキレイ、コガモの群れ、 たまにカワセミなどが観察できて飽きない。 ぬるいからのぼせないし。 平日も昼間ということもあって人も少なく、この露天風呂を独り占め。 こんな時間にこんな絶品温泉に入ってるって、これこそ幸せなんだろなーとしみじみ。 かなり長いこと入ってましたー。 あー気持ちよかったー(^^)v 「御前湯」の温泉カルテ。 源泉掛け流し、自家源泉。 下の黒い筒の中を温泉が流れていて 日当たりもバッチリ。 猫たちは居心地のよい場所をよく知ってるもんだわー。 この後は久住高原周りで帰宅。 ススキ野原と牧場アイス、久住山、三股山などを 堪能しました。 いいドライブだったー。 さて長い長い正月休みも今日で終わり。 明日よくやく帰ります。 午前中飛行機で1時間ほどブーンと飛んで、午後から出勤だー。 いいリフレッシュができましたー。 休み過ぎ・・・?(^^; 今日もジモセン的な共同湯へ行って来ました。 その名も「砂原温泉」。 別府八湯のうち鉄輪温泉に属する温泉です。 温泉宿が密集している鉄輪地区の、横断道路を挟んだはずれにあります。 よって観光客が入るような温泉ではなく、もっぱら地元専用。 料金は100円。 中央のポストみたいなところへ投入。 番台はありません。 全貌は撮れていませんが、なかなか広くて明るい。 別府の共同湯では、めずらしく?脱衣所と浴場が別部屋なタイプ。 ところどころはがれていたけど、壁や湯船のタイルもピンクなどの明るい色で 全体的にちょっと前の家庭のお風呂を大浴場風にした感じ。 別府の典型的な共同湯の雰囲気とは違う温泉でした。 お湯は若干のとろみを感じる薄い白濁の食塩泉。 今井地区(ってどこだろう?)の引き湯らしく、湯船の湯温は若干他よりぬるめ。 でも塩分の効果でよく温まります。 しっとり保湿系のいいお湯でしたー。 もらったハンコ。 「砂原温泉」のハンコのおじいさんは誰なんだろう・・・? 新しい年も始まったことだし、度数も合わなくなっていたので 前から変えなければ!と思っていた眼鏡を今日買いに行って来ました。 韓国の俳優さんが広告塔のワンプライスでどんなレンズもOKなところ。 いやー早いね。 30分ほどでできたねー。 その帰りに寄ったのは別府八湯のうち別府温泉に入る「紙屋温泉」。 いわゆる共同湯、ジモセン(地元専用温泉)的な温泉です。 外にはベンチと飲泉所、そして薬師如来さん。 看板がいい味出してます・・・(^^) 値段は100円、洗髪は+40円。 番台のすぐ先の暖簾をくぐると 狭い靴脱ぎのスペース、そしてそのまま2畳ほどの脱衣所。 狭いので4・5人も居ればすぐにいっぱいいっぱいです。 サッシを隔てた一段下に浴場。 お正月ということで、ざぼんが5個プカプカ浮いてました。 お湯は結構熱め!たぶん普通の人は入れないと思う(別府人は熱好きだし)。 そりゃ熱いわなー。 ちょうど熱好きの地元の人が来てたからかもしれないけど。 お湯は金気(鉄臭さ)が強い単純温泉(たぶん)。 いやー別府らしい、いいお湯でしたー。 温まったわー。 こげ茶の細縁。 シンプルで結構気に入ってます。 今日は少し遠出したついでに、九重町の壁湯温泉に行ってきました。 今回入ったのは創業110年の「福元屋」さん。 一人300円。 すぐ隣には200円で入れる共同湯がありました。 が今回はスルー。 川沿いにあるこの温泉、階段を下った右手(小屋の向こう)は半洞窟の露天風呂! 壁というか足元というか、湯船の底の丸石の隙間からジワジワとお湯が湧き出す 野趣&秘湯感抜群のとてもおもしろい温泉。 なので女性専用「天女岩風呂」(手前の小屋部分)に入ってきました。 小屋に入ると正面に棚と脱衣かご。 そしてそこから数段下ったところに洞窟風呂ー! 湯気でくもってうまく撮れなかった。 完全に地下構造の洞窟だー。 湯船も入り口以外は三方&上方とも天然の岩壁。 上からしずくがポタポタ落ちてきて、ヒットすると冷たい! お湯はぬるめ。 体温より少し高いくらいで無色透明。 湯温が低いのでゆっくり入っていると次第に体に細かい泡が付く。 七里田温泉の下湯ほどではないけど、お湯に二酸化炭素が多く含まれている様子。 面白いのはどこがお湯の湧出口かわからないこと。 どんどんお湯はあふれて流れていくのに、どこから湯が来ているのかわからない。 湯船の底壁に直径20cmほどの穴があるので、そこが混浴の半露天のほうとつながっていて、そこから流入している以外は考えられないけど、湯の流れが感じられないのだなぁ・・・?不思議だー。 混浴の半露天のほうも入りたくて、男の人達がいなくなるのを狙っていたけど 結局人が絶えることはなく、そっちは入れずじまい。 ここも混浴で同じような半洞窟(階段下った下)。 でも川との間に壁。 情緒はやっぱり「福元屋」さんのほうがあるかなー。 ここも男の人がすでに入っていたのであきらめましたー。 ここ数日山のほうで続いていた吹雪が止んだので、 今日は山側の温泉に行ってきました。 明礬温泉の奥にある「奥みょうばん山荘」です。 まだところどころに雪の残る狭い道を上がっていくと いきなり開けた視界と温泉の蒸気。 冬は外気温の差でよけいに湯煙が白い。 奥の山は自衛隊の演習地?のためススキ野原のきれいな山肌。 今所々で増改築工事中でした。 コの字型に建物が並んでいて、すべて家族風呂形式で一人500円。 だから一人で行けばその値段で貸しきり湯が楽しめるのだー。 内湯のみだけど広いです。 お湯は湯の花が舞う白濁の硫黄泉!源泉掛け流し! 源泉温度が97.5度を加水せずに45度までまで下げてちょろちょろと流していた。 だから湯温はすこし熱め。 でも私はこれくらいが好きー。 湯船の中を歩くと底に溜まっていた湯の花がふわっと舞って、さらに白濁。 硫黄の匂いとこの濁り、まさにこれぞ温泉!って感じ。 ここはカランのお湯も温泉。 だから上がり湯をしても温泉。 確かに湯小屋は質素だけど(増改築前のね) お湯の質はいうことなし!隠れ家的で穴場ないい温泉でしたー。 1月1日から今日までのスタンプ。 一日一個ずつ増えていってます。 芝居の湯と小倉薬師温泉のはまたいつか。 ようやく道後温泉の記事をば。 松山市の観光の中心と言ってもいい「道後温泉本館」。 白壁に茶色の柱、日本瓦の歴史ある建物。 重要文化財らしい。 別府のと雰囲気や位置づけが似ている。 結局道後温泉には5泊中3回行きました。 いつ行っても観光客が写真撮ってた。 当然脱衣所も浴場も人がいたので中の写真はなしです。 道後温泉にはいろんなコースがあって、400~1500円と値段が全然違う。 まず浴場が2種類あって、どちらに入るかを選ぶ。 広くて一般的な「神の湯」は地元の人も入る銭湯的なところ。 もう1つの「霊の湯」は少し小さめだけど作りが贅沢で個室的に楽しめる(らしい)。 んで入浴のみか、2階の大広間で休憩するか、3階の個室で休憩するか選ぶ。 ちなみに「霊の湯」の入浴のみはない。 私は3回とも「神の湯」の入浴のみ400円。 私は「右手の赤いのれんに入ってください」と言われた。 女性用の脱衣所は浴場を挟んだ形で2つあって、空いているほうを選ぶ。 奥の脱衣所は2階、3階へ上がる階段に近いので、 大体休憩付きの観光客が多くて、入り口に近い方は入浴のみの地元客が多い。 脱衣棚は鍵付き。 数はかなりあった。 他にセルフのお茶、コイン式ドライヤー。 浴場はすべて石造り。 小判型の広い湯船が中央にあって、 出入り口を挟んでコの字型にカランが16個(だった気がする)。 広いです。 カランのない壁面は、一面白タイルに青墨で書いた山水画的なもの。 湯船の中央には石像2体が乗った湯釜?から湯が四方に掛け流し。 面白かったのは湯船の水深が深いこと!水深1m近くはあるハズ。 幅15cmほどの狭い段がぐるっと縁にあって、一気に落ちる作り。 お湯はアルカリ性単純温泉。 無色透明。 何年か前から県条例によって塩素系薬剤の投入を行っているらしいが においは全然気にならなかった。 アルカリ系特有のツルツルはするけど、pH9.1の割りには弱い気がした。 でも肌にはとてもマイルドなお湯。 その帰り、入浴のみでも「坊ちゃんの間」が見られるとのコトで、禁断の階上へ! 2階の大広間を横目で見つつ、さらに3階へあがり、個室の横を通った一番奥の角に ありました。 6畳の部屋に夏目漱石関係の写真とか歴史表とかが見れます。 部屋的には、高料金の3階個室と同じなので、ココを見学すれば 2階大広間のちら見+3階個室の雰囲気も味わえます。 18時5分前。 1時間に1回動くので、この時周りには観光客が溜まってました。 18時。 1階ではお風呂に入ってます。 隣には足湯もあるし、待ち合わせ場所にはいいかもー。 27日も日帰り一人現場。 調査が遅めの終了で、そのまま家に帰らないと遅くなることはわかっていたけど、ここまで来たならと今回も温泉に寄ってしまいました。 行ったのは「」内にある「ひよし温泉」 桂川上流にある日吉ダムに隣接してある施設で、温泉のほかに温水プール、 体育館、ギャラリー、レストランなどがある複合施設。 一般道から入って最初の駐車場に止めたら、実はここに温泉はなく・・・ 100mほどある桂川を越える橋を渡った先にありました。 右は体育館、左は温水プール。 このプールの奥が温泉で、じつはそっちにも 駐車場があったのだ。 でもまぁいいやー。 650円(土日祝800円)で券を買い、フロントで渡すとロッカーのカギをくれる。 温水プールと併設していて、そのほか軽食コーナーやリラックスルームなどあって 雰囲気的には温泉というよりスポーツジムとかホテルのよう。 長くて広い廊下を歩いていくとある温泉の入り口。 「石の湯」と「木の湯」。 今日の女湯は「石の湯」だ。 どうも日替わりらしい。 清潔で広い。 この隣にドライヤー完備の洗面所もありました。 浴場は人が多くて撮れなかったけど、こちらも広くて清潔。 ジェット&バブルな内湯は加温・循環で、こちらは温泉ではなく 一番奥にある露天風呂のみが源泉100%。 暗くてあまりよくわからなかったけど、かなりの濁り湯。 たぶん黄土色系かなー。 透明度は10cmないくらいだった。 んで薬品のような、油のような、なんとも言えない独特のにおい。 舐めると強い塩気。 食塩泉特有のツルツル感がする。 匂いも色も(味も)インパクトがあるので いかにも温泉です!という感じでよかった。 他にアロマサウナと水風呂、寝湯もありました。 頻繁に従業員の方が管理にきていたので、使った洗面器が放置、とか 足拭きマットがびしょびしょ、なんてことは全くなく、とても清潔で気配りの利いた印象。 まさにホテルの温泉みたいー。 温泉を出たのは夜9時。 んで家に帰ったら11時でしたー。 さすがに疲れた。 次は24日に寄った「」本館について。 右手の大きな建物が温泉施設で、奥にロッジとか宿泊棟とか、隣接して食事処もありました。 新館のほうと違い、全体の建物の雰囲気がこげ茶を基本とした昔の建物っぽく統一してあって落ち着いた感じ。 600円を払って、細めの廊下を進んで中へ。 ロッカーが大きくて使いやすい。 洗面台にはドライヤー完備。 お風呂はこちらも3つの湯船。 源泉風呂と露天風呂と内湯。 こっちの源泉風呂は新館より広くて、雰囲気があります。 新館と比べこちらは岩風呂や木製槽など、温泉風情があります。 んで向こうのつくりは直線的だったけど、こちらは3つの浴槽のあるそれぞれの部屋(1つは露天)が逆L字型に配置されている感じ。 それぞれにカランがあるのもおもしろい。 泉質は新館も本館ももちろん同じのアルカリ性単純泉。 こちらでも低温の源泉風呂と加温の露天とを繰り返し入ったらかなり気持ちよかった。 長湯にはいいわ~。 源泉風呂もアルカリ特有のツルヌル感は薄い。 他はとてもいい分、この点だけは残念~。 こんな看板が脱衣所にありました。 こんだけ湧出量があるなら完全かけ流しにしたらいいのに~とやっぱり思ってしまう。 まぁ運営上いろいろあるんだろうけど・・・。 帰りに売店で、今度は大山高原のコーヒー牛乳モナカ100円を買う。 新館ではなかったぞ!でも昨日の牛乳モナカはこっちにはない。 ??? 温泉以外にもいろんな施設があるので、時間かけてのんびりするにはいい所だ。 23・24日の現場の帰りに「」に寄りました。 播但道の市川南インターから笠形山へ向かう県道を、ひたすら北東へ。 6月にはホタルも舞うという岡部川に沿って上流へ進むとぽっかり現れます。 県道から入り口に入るやいなや、昔の車が置いてあったり水車があったりして 温泉以外にもいろいろ楽しめそうな感じ。 23日は本館が休館だったので、坂道を登りきったところにある 新館の温泉施設「みはらし館」に行きました。 こちらは土日月のみらしい。 お土産ものなどが置いてある入り口で600円払っていざ! 女湯の暖簾がかかった引き戸を開けると、ベンチなどがあるちょっとした空間が。 さらに進み、扉をあけると脱衣所。 細長く広い!無料ロッカーと脱衣カゴ。 洗面所にはドライヤーあり。 そしてそのまま奥(写真撮った側)に進むと浴場が。 こちらも細長ーい作り。 写真右奥が低温の源泉を加熱して適温にしている内湯。 右手前には(ちょっとしか写ってないけど)源泉そのままの「源泉風呂」。 カランは左の壁際にずらーとありました。 10個ぐらい? さらに奥に進むと露天風呂! こちらも細長いー。 入り口からベンチスペース、脱衣所、内湯、露天と 一直線になっているシンプルなつくり。 温泉情緒には物足りないけど、新館らしいカチッとした感じです。 お湯は無色透明な単純アルカリ泉。 内湯も露天も加温・循環で、カルキ臭があった。 湯面からは鼻を近づけないとわからない程だけど、湯口近くではちょっと気になったなぁ~。 「源泉風呂」はほぼ体温と同じくらいの温度なので、長湯にはちょうどいい。 こちらはさすがにカルキ臭はなし。 露天で半身浴したあと低温の「源泉風呂」に長湯、を繰り返したら かなり気持ちよかったー。 でもアルカリ特有のツルヌル感は源泉でもあまり感じられない。 うーん残念。 湧出量が豊富なので、加温は仕方ないとしても循環しなくても良さそうなのになぁ・・・ と個人的に思ってみたり。 ここはもう一度行きたかったところ。 住宅街の高台にあるお店に11時過ぎに到着。 ここの温泉は仕出屋さんがやっていて、食事とセットで1,200円。 階段を数段上がってさらに高台に行きます。 「景観の湯」と「金鉱の湯」。 男女日替わりで、奇数日は女性が「景観の湯」なのだー。 小さな小屋の中に脱衣かごのみ。 貴重品ロッカーは大広間のほうにありました。 湯船は3つ。 それぞれ時間差でお湯の色が違っていました。 一番手前は一番時間が経ってて もう乳青色。 その右隣(少ししか写ってないけど)はまだ透明度がある。 ピークはやや過ぎた感じかな。 「神和苑」の露天より深いので青が綺麗に見えます。 ここの「景観の湯」は別府の街&別府湾が見渡せて、 天気のいい日は四国まで見えちゃうのがすごい!開放感抜群! 今日はやや霞んでたのは残念だけど、あまり天気がいいと日焼けするしね~。 お湯は「神和苑」と同じ弱アルカリ性のナトリウムー塩化物泉。 食塩泉特有のつるつる感がします。 でも上がったあと少しベトベトするかも。 味は仕出屋さんということで保障付き。 最高のお風呂とともにごちそうさまでした~。 青湯の元となるメタケイ酸量は「神和苑」より3倍ほど多かった。 さて、「いちのいで会館」はお湯につかるのみなので、体と頭を洗いに別のところへ。 高台から下ってきて、別府温泉にある市営温泉「永石温泉」へ。 ここは「ミニ竹瓦温泉」とも呼ばれる趣きあるつくり。 お湯は「ナトリウム・マグネシウムー炭酸水素塩・塩化物泉」という長い名前の泉質。 やや熱めのさっぱりしたお湯。 こちらもなかなかのお湯。 2007. 2007. 2007. 2007. 2007. 2007. 2007. 2007. 2007. 2007. 2007. 2007. 2007. 2007. 2007. 2007. 2007. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006. 2006.

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市川一家4人殺人事件の当時19歳の関光彦の死刑が執行 ネット民「このクズの死刑は当然だね」

市川いっかさつがい

「平壌のアパートにいる時、夜ベランダに出て、 外を眺めながら、帰りたいねえとお互いに話しました。 もうあまり泣くことはあ りませんでした」。 アパートだから、高層なんでしょう。 夜ベランダには出ることができた。 そし て、街の明かりをみながら、「帰りたいねえ」と話したということでしょう。 増元 曽我さんから聞いたことがあるんですが、革命戦士の墓がある烈士廟とい うところで、るみ子らしい女性を見て、その時は2か月くらい経っていたのでは ないかと言っていました。 西岡 じゃあ、78年10月くらい。 増元 指導員と一緒に見学した時、カラスが頭の上を飛んでいて、それがフンを 落とすのを見ておかしくて笑ったと言っていました。 その頃は涙も枯れていた時 期ではないかと思います。 西岡 彼らは最初は心細い思いを与えて脅し、逃げたら軍隊が追いかけると言っ てあきらめさせる。 それでもアベック同士は一緒にしないで、女性同士、男性同 士で教育を始める。 その時、お互いにパートナーは返したと言ってだます。 これ は蓮池さん、地村さんも同じ手法です。 増元 めぐみちゃんが拉致されて、安明進(元工作員)さんの証言によると、北 朝鮮に一人で来たためか精神的に追い込まれて安定しなかった、と。 また、兵本 さんが言っていたことですが、その後北朝鮮の工作員が方針を変えて、「つがい で持ってこい」と。 人間を「つがい」というようなひどい奴だと私は思いますが、 男女でいた方が安定化する確率が高いと考えると、別々にするというのは理に合 わないんです。 西岡 両方とも忠誠心があり、使えるかどうかを見て……。 増元 おそらくそうでしょう。 忠誠心を試したんでしょう。 そんな中で、どちら かが忠誠心が欠けていたら、またどうにかされた可能性がありますね。 西岡 1年経って、蓮池さんたちも、地村さんたちもお互いに会うということを 考えると、79年10月25日に分かれた後、(るみ子さんは)市川さんに会っ て、次の年に結婚したというのは十分ありえる話です。 歌のことが出ていますが、ジュリーが好きだったんですか。 増元 あの頃、若い女性でジュリーが嫌いな人はあまりいなかったんじゃないで しょうか。 しかし、そんなに傾倒していたとは感じていません。 西岡 「瀬戸の花嫁」は小柳ルミ子さんですね。 増元 イルカも好きでしたね。 私自身も好きでした。 なんか海賊の歌とか山賊の 歌とかなかったですかね。 よく歌っていました。 西岡 琴を習っていたと。 増元 私も姉に「さくら」を習いました。 そして日記を書かされた。 聞き取りをさせら れたということですね。 最初に朝鮮語を教えられ、その後主体思想を教えられる んですね。 そういう順番です。 増元 「主体思想とある宗教団体の教えがだいたい似ていると言ったら起こられ た」とあります。 なぜその質問をしたかというと、北朝鮮では唯一の主体思想、 唯一の首領様で、それ以外を崇拝する人間をどうするのかです。 創価学会は毎朝 勤行というのがあります。 そういうことをやっていて北朝鮮からにらまれる可能 性はないかと思ったのです。 やはり、そういう感想を持つと怒られて、自分の気持ちを抑えていったと思い ますが、「他の宗教を信じることはなかった」ということですので、姉が宗教を どのように淘汰していったのか分かりませんが、姉にとっては支えだったものを 失ったのかなと感じました。 西岡 食事で、朝、バター、ジャム、ハム、卵焼きにキムチが出ているのはコリ アン・カルチャーだと思います。 旅行で、妙香山の親善博物館というのはどんな ところですか。 惠谷 これは国際親善館というところで、最初は金日成だけでしたが、別に金正 日のコーナーができました。 そこには、世界各国からこういう贈り物をいただい たと、象牙細工とか色々です。 だいたい第三世界のギニア・ビサウとかです。 ボー ルペンまで大事に並べています。 それを世界中から首領様が慕われている証拠と して学習させるというところです。 西岡 日本の組合とか自民党の政治家からのものもあるんですね。 惠谷 日本からのものもすべてが並べられています。 西岡 信川博物館というのは。 惠谷 これは朝鮮戦争の時、信川で激戦があって、虐殺があったと北朝鮮が主張 する所に博物館を作って、住民の学習に使っているところです。 惠谷 拉致被害者はある意味で非常に恵まれています。 優越性を感じさせるとい うことで、送り迎えの時は必ずベンツです。 当時の北朝鮮では、ボルボもありま した。 中国製の紅旗もありましたが、最高級レベルはベンツです。 ベンツに乗っている人はすべて偉い人ということで、小学生等はベンツが通る と必ずすべて敬礼します。 ですから厚遇されていたという一側面です。 西岡 物質的にはということですかね。 惠谷 逃げることはできないのですから、ある意味でそういうところでカバーし ていたということかもしれません。 西岡 外貨ショップに行けたが、普通の外貨ショップではなく、特別にカーテン がしてあってアパートの1階の店だった、というのは。 惠谷 当時は外貨ショップもさほどなかったと思いますが、逆に幹部用があった。 これは普通のアパートの1階で、カーテンをして外には見せないようにしている。 ソ連時代のモスクワもそうでした。 外貨ショップというのは、外貨を持っていれ ば誰でも行けます。 その時被害者と顔を合わせるとまずいということで、こうい う特別な店、党幹部が兌換券を貰って買いに行くところで買っていた。 西岡 鹿児島ではスイカの皮で漬物を作るんですか。 増元 我が家では、夏は、赤いところは食べて、削って、白い部分を漬物にして いました。 西岡 卓球がうまかったのですか。 増元 もちろん。 卓球部の副キャプテンでしたから。 サウスポーで背が162セ ンチ。 確か市大会で女子団体ではベスト4に入ったと思います。 私もベスト4に 入っていました。 「いつまで日本からの助け を待っていましたか」と。 すると、「数年間は待っていた。 しかし、全然助けはこなかった。 結婚して、 子どもができて、自分の一生はこの家族を守るためにあるんだと思った」、「帰 れるという希望を持ってしまうとかえって辛くなる」、と。 「横田めぐみさんは、『帰りたい、帰りたい』とずっと言っていたので、そう いう希望を持つと精神が不安定になるよとアドバイスしたんですよ」ということ を聞いていました。 祐木子さんの手紙の中で、「夜月を見ると、日本に帰りたいなあと心の中で思っ ていました」とあります。 曽我ひとみさんは、「月や星を見ると、佐渡でも同じ 月や星が見えているだろうなあ。 いつ日本から助けが来るだろうか、とずっと思っ ていました」と言っています。 やはり月を見るんですね。 増元 そうですね。 ただ、蓮池薫さんは男ですからそういう覚悟もしなければい けなかったでしょうが、曽我さんはずっと助けが来てくれると思って、月を見て は日本を懐かしんだと言っていましたので、姉はどうだったのかなと思ってこう いう質問をしました。 西岡 別れるときは、前日に突然、荷物をまとめろと言われる、これもひどいで すね。 増元 ひどいと思いますよ。 本当に不安でしょうね。 1年間一緒に暮らしていた 女性と突然自分だけが移動させられるというのは、その後の自分の身に起きるこ とを想像すると怖いでしょう。 そんな恐怖を2回も与えられているということ自 体、それは絶対に許せないですね。 金正日もそうですが、北朝鮮のこうした組織 というか政権は、私の姉に何ということをしたんだと思います。 私はできれば、(招待所の)おばさんなんかは許してあげたいと思いますが、 政府関係者、特に工作員関係者は絶対に許せないし、断罪すべきだと思います。 西岡 この手紙をお母さんにも見てもらったんですか。 増元 兄に送りました。 兄が母に見せるかどうかは兄に判断を委ねました。 見せ たかどうかはまだ聞いていません。 この手紙を見て、私でさえ悲しい、ズシンと くるものがあって、84歳のお袋が耐えられるかなと思ったものですから。 西岡 お姉さんのフミ子さんはどう言っていましたか。 増元 姉もずっと仕事でいなかったものですから、先日読んだようです。 今日こ の手紙を書いてくれましたが、これでは(祐木子さんの手紙には)まだ触れてい ませんね。 電話でも、「指宿に行くようなことがあったっけ」というような事務 的な確認しかしていなくて、あれはひどい、これはひどいというような感想を言 い合うようなことはしていません。 しかし、私でさえショックを受けたわけですから、ショックを受けると思いま すよ。 横田めぐみさんの場合は少し情報があって、めぐみさんがどういう目にあった かは分かっているのですが、こうして増元るみ子さんが40時間かけて連れてい かれた後、1年間どういう暮らしをしていたのか分かってきたということは、よ り拉致問題の残酷さ、ひどさを私たちに教えてくれることになりました。 こういう人を未だに取戻せすことができない。 北が増元さん拉致を認めて10 年経っても、まだ取戻すことができない。 重たいことだと思います。 増元 ほんとうに祐木子さんには感謝をしたいと思います。 これが原文なんです が、非常に丁寧な字で分かりやすく書いていただいています。 非常に心をこめて 書いていただいたものと思いますし、北朝鮮にいる時の姉の様子というのが本当 によく分かりました。 私は日本にいる時の姉しか知らなかったのですが、30年の空白が少しだけ埋 まったと思います。 しかし、常に恐怖の中でしか生きていけない状況を、日本の 方たちに分かっていただきたいんです。 どれだけ恐怖を我慢してきたのか。 私は拉致問題が公になった時、ある作家が、 「北朝鮮に連れていかれた人も、向こうでは向こうの生活があるから、日本に連 れ戻すのは帰っておかしいんじゃないか」と言いましたが、この話を聞いても今 でもそう言えるのかと。 残念ながらその方は亡くなりましたが。 そういうことを考える人たちが日本にまだいらっしゃると思います。 残念なが ら。 こういう方たちをなぜ放っておくのかと考えていただきたいですね。 祐木子さんと 分かれた後、るみ子さんがどのような状態だったのかということに関して、救う 会でも様々な情報活動をしています。 今日、お話できることが一つだけあるので持ってきました。 「市川修一・増元 るみ子さん情報」という資料を配布しています。 先ほども少し言いましたが、北朝鮮は、市川さんと増元さんについて、「19 79年7月に結婚した」。 そして、市川さんは、「79年9月4日に、元山の海 水浴場で泳いでいる時に心臓麻痺で死んだ」と。 増元さんは、「81年8月17 日に心臓麻痺で死んだ」と言っているわけです。 市川さんについては、元工作員安明進が、2002年以前から「1988年か ら1992年まで何回も目撃した」と言っていますし、増元るみ子さんについて も、2002年以後に、公開の席で「似た人を見た」と言っています。 安明進さんに詳しく聞くと、「市川さんは話をしたから自信があった。 横田め ぐみさんは、一番かわいかったし何回も見ているので自信があった。 それ以外の 日本人については、関心がなかったのであまり覚えていない」と。 ただ、日本の 警察は1997年、98年の段階で、「増元るみ子さんに似た人を見たという証 言はしたが、家族には自信がなかったので言えなかった」と言っています。 るみ子さんの写真はサングラスをしたデートに行った時の写真しか出ていなかっ たので、全身の写真等を見て、安さんは「似ている人がいた」と言って、「92 年1月20日まで目撃した」と言っていました。 救う会は、2008年に、ある情報を入手しました。 「自分は脱北者だ。 日本 人拉致被害者を直接扱った。 詳しいことは電話では言わない。 まず先にお金を送っ てくれ、助けてくれ。 そしたらしゃべる」と言ったんだそうです。 日本人をどこで見たのか 教えてくれ、そしたら助けてやる方法もある」と言ったら、その後連絡がなかっ た。 その後、向こうからまた連絡があって、「FAXを送ったのになぜ返事しないの か」と言われたがFAXは来ていなかった。 「もう1回FAXを送れ」と言ったら、 「分かった」と言って、2008年の7月末か8月初め頃にFAXが来た それは実際は3ページのものですが、1ページしかきていなかった、というこ とでした。 その後また連絡が来なかった。 当時、私も(対北)ラジオで、「拉致被害者に 関する情報をくれたら報奨金を出します」と言っていたので、ガセネタが自由北 朝鮮放送にも来ていたので、それかなあと思っていたようです。 従って、中国に、工作機関の幹部で、拉致のことを知っている人が逃げている ことは間違いないということで、色々と探してみたんですが、その人は消えてし まった。 その人と連絡がつくのであれば、この情報を外に出さないんですが、捕 まったのか、あるいは逃げ切ったのか分からず、韓国には入っていないというこ とでした。 それで、次の年の2009年3月の、家族会・救う会の合同会議の時に、「こ ういう情報があります。 しかし、確実ではない」という前提で公開しました。 メー ルニュースにも書きました。 その中の市川修一さんと増元るみ子さんに関する部分が(配布資料の)「情報 源A」です。 その情報では、「市川修一さんの朝鮮名はキム・チュンヒ、増元るみ子さんの 朝鮮名はソ・ジョンオク」で、北が発表した名前とは違います。 増元 姉は、ホ・ジョンシルという発表でした。 西岡 2人の担当指導員はチョン・チルファン。 そして、1979年2月から1 981年4月まで平壌市順安区域招待所で生活。 増元 蓮池祐木子さんと、79年10月25日まで一緒でしたが、正月あけてか ら順安招待所に移ったということですから、合いますね。 西岡 「1981年4月まで平壌市順安区域招待所で生活」とありますが、二人 が別れた後、別の順安招待所に行った可能性もあります。 そして、「1980年 7月頃、鄭チルファン指導員の保証下で結婚が承認」されています。 さらに、 「1982年から1986年頃まで平壌市兄弟山(ヒョンジェサン)区域2級招 待所で生活、当時市川さんは平壌市兄弟山区域に位置する金正日政治軍事大学で 統一戦線部所属の工作員に日本語を教え」ていた。 この兄弟山区域というのはど ういうところですか。 惠谷 金正日政治軍事大学があるのは、龍城(リョンソン)区域ですが、その西 側が兄弟山区域です。 分校が分散していますから、兄弟山区域にもあるのかなと 思います。 普通、統一戦線部の工作員は、金正日政治軍事大学では学びませんよね。 惠谷 いや、特別課程で学ぶことはあります。 西岡 そして、「1986年から1996年まで平壌市牡丹峰(モランボン)区 域日本人専用招待所で生活しながら金正日政治軍事大学と平壌市龍城区域龍秋 (リョンチュ)3洞に位置する工作員招待所で日本語講師として活動」というこ とですが、このことについてはどうですか。 惠谷 これは密封教育と言いますか、招待所の工作員と教師が、個人教授をする ということです。 西岡 金賢姫と田口八重子さんみたいなものですね。 惠谷 はい。 二人でやるシステムが垣間見えます。 西岡 こういう未確認の朝鮮語のFAXが私の手元にありました。 その後、様々な 情報活動をする中で、二つの別々の情報を入手しました。 「情報源B」は、「市 川さんは1996年まで労働党中央委員会直属政治学校(金正日政治軍事大学) から龍城地区の招待所に日本語を教えに行く講師だった。 一番長く、地区の講師 をしていた」ということです。 この直属政治学校と金正日政治軍事大学の関係についてはどうですか。 惠谷 金正日政治軍事大学の前の名称が直属政治学校(80年代から1992年 1月25日まで)です。 西岡 元工作員が亡命した時期によって、直属政治学校という人もいるし、最近 なら金正日政治軍事大学という人もいます。 この「情報源B」は「情報源A」の、 「金正日政治軍事大学と平壌市龍城区域に日本語を教えにいく」ということとぴっ たり合うんですね。 惠谷 これで情報がクロスしますね。 西岡 そして「情報源C」は、「金正日政治軍事大学で1983年から1期のみ 統一戦線部所属学生の3年制の教育がなされた。 100人入学して終了後50人 が工作員となった」、「1983年から86年に現役工作員が2から4カ月の短 期研修のため金正日政治軍事大学にくることがあり、そのとき、講師として日本 人が使われた。 市川さんに似た男もその中にいた」と言っています。 この「情報源C」は、元工作員の脱北者で、今韓国にいる人ですが、非公開の 人です。 この人に私が直接会って聞いたんですが、その時私がちょっと思い出し たんです。 安明進さんも似たようなことを言っていたな、と。 私のファイルを見たら、安明進さんも、「1981年から82年まで統一戦線 部武装宣伝隊教育生160人が金正日政治軍事大学で教育された。 後に695病 院になる建物を宿舎とした」。 人数が少し違いますが。 その時安明進さんはこう 言っていました。 統一戦線部は非合法活動をする部署ではなく、半合法活動をする部 署で、お前らは本当の工作員にはなれないと、しゅっ中学内で喧嘩をしていた」 そうです。 この「1981年から82年まで」というのと、「1983年から」も時期が ちょっと違います。 安明進さんの話によると、「80年5月に、韓国で光州事件 が起きた。 全斗煥将軍が政権をとるために、光州で起きた学生のデモを鎮圧する ために軍隊を派遣して軍と学生が撃ち合いになった。 その時、金正日が大変残念 がった。 送る部隊がなかった、と。 半合法活動をする、そして武装活動もできる ような南に派遣できる部隊が、統一戦線部になかった。 何かスキャンダルがあっ て、解散したという話もあった。 それで、もう一度光州事件のような事態が起き た時、南の人間になりすまして行けるような部隊、デモ隊に紛れ込んで、煽動し て、銃も撃つような部隊を作りたいということで、特別コースとして金正日政治 軍事大学に統一戦線部を入れた」ということです。 「情報源A」でも、「1982年から1986年頃まで金正日政治軍事大学で日 本語を教えていた」とあります。 人間の記憶違いということはありますが、筋は 同じで、「情報源C」と安明進さんの証言と「情報源A」が一致しますので、FAX で来た情報で、誰が書いたか分からないものですが、あまりにも詳しすぎて、本 当かなあと逆に思ったんですが、「情報源A」の中の2つの情報が、別々の所か ら入手できた2つの情報とクロスチェックできたということは、かなり信憑性が 高いと思います。 増 元るみ子さんと結婚しているわけですから、増元さんも生きていらしたと言える し、蓮池さんたちや地村さんたちと同じ時期に同じ招待所にはいませんでしたが、 「一緒にはいなかった」と彼らが言っていることとも矛盾しないと思います。 これがるみ子さんについて今日我々が提供できる調査結果で、市川さんにはお 電話をして、こういうことを今日発表しますとお伝えし、喜んでいただくことが できました。 増元 1996年まで生存という情報はありますが、政府も一応情報を持ってい るわけです。 しかし、増元るみ子のことに関しては、ほとんどないと言っていま した。 横田めぐみさんと田口八重子さんはいっぱいあるのですが、私のところは、 「ない」と言われるのです。 こうやって、政府が取り入っていけないところを民間がカバーしているという ことを考えますと、政府の情報源って何なんだ、政府の情報網って何なんだ、政 府が情報を集めているというのは何なんだ、お金が余るのは当り前じゃないか、 と私は思ってしまいます。 とにかくこの10年、何もしてこなかったというのがあると思います。 今の担 当者もこの2年で、情報をしっかりと確立できるようになったと言っていました が、10年前から政府に警察官僚がいたわけでしょう。 何をやっていたんだとい うことになります。 本当にこの拉致問題を真剣に考え、10年間なにもできなく て、今ようやくできましたと言ってもしょうがないでしょう。 もっと早くやれ、と私は思いましたけどね。 増元 その情報を集める努力が足りないということです。 政府の外務大臣にも、 総理大臣にも、「情報を集めてほしい」とずっと言ってきました。 中朝国境には 20万人の難民がいるという状況がずっと続いています。 あの当時でも、難民を 使って情報を取りやすくなるという話もあったし、実際出入りしていた人もいっ ぱいいるわけですから、そこに行って情報を取ろうとしていたかどうか、取ろう としていなかったんです。 今現在、それがいくらか進んでいるのは確かでしょうが、10年ですよ。 この 10年の間に、何人家族が亡くなりましたか。 何人待ちきれずにいってしまいま したか。 その責任は誰が取るんですか、ということをもっと真剣に考えてもらい たいというのが私の思いです。 文句ばかり言っているようですが、悲しいんですよ、日本のこのような状況が。 残念でならないんです。 西岡 民間がカバーしている、というのはちょっと言い過ぎで、私は情報源は共 有しませんが、情報は救出のために役立ててほしいので、然るべきところにはお 伝えしたいというのが救う会の姿勢です。 然るべきところは情報をくれませんが、情報というのはそういうものだと思っ ています。 ただ、出先でバッティングすることはあります。 お互いに情報源は明 かさないですが、こういうことについて全部分かっていないということではない と思います。 もう一つ、私は一番最近のことは公開しません。 あるかないかも言わないのが 原則で、今どこにいるかということが分かったということが北朝鮮に分かってし まったら、移動させられます。 こちらが何を持っているかを言わないというのも 一つの情報戦です。 もう一つは、今つながっている線については言わない。 そのことを言ったら、 情報提供者が殺されてしまう。 第三者からもらった情報も言えない。 自分で取った情報は自分で自由に使えま すが、第三者からもらった情報は、もらうということだけでも大変なことなのに、 それを自由に使うことはできないというのも原則です。 「こちらを甘く見るな」と。 「あ なたたちの政治警察が平壌市民210万人のリストを売りに出したくらい腐敗し ているんだ」と。 「どんどん、どんどん、真実の情報が海外に売りに出てるぞ」 と。 「それを買えないような日本ではないそ」ということを強く伝えたい。 また、祐木子さんの手紙にも、「病気になった時、医者が来た」とありました が、「最新の医療をまずやってもらわなければならない。 傷つけたり、病気になっ て死なせたりするようなことがあったら、それは許せない」ということを強く言 いたいですし、逆に、「被害者救出に役立つような情報を送ってくれた人に対し ては、報奨金を政府が出すでしょうし、出さなければ民間がカンパを集めても出 します。 身柄の安全も最大限守ろうと思います」、「被害者を傷つけるようなこ とをした人がいれば、イスラエルがナチスドイツの残党を時効なしで探している ように、日本もそれと同じ事をする」、ということを私は北朝鮮向けの短波ラジ オでずっと言っています。 増元さんもラジオでそんなことを言っていますよね。 緊張感を持って助けてい かなくてはと思っています。 すべて が正しいかどうか分かりませんが、(市川修一さんが)統一戦線部の日本語教師 だったというのは間違いないと思います。 一つ付け加えると、辛光洙(シン・ガンス)という男のことはご存知だと思い ます。 この男が、「めぐみちゃんは俺がやったんだ」と言ったようです。 しかし、 「俺がやった」というのは、格好をつけているだけかもしれません。 証拠はあり ません。 辛光洙は、金正日が党3号庁舎というか、拉致工作機関を検閲して、工作員を 全部召還します。 そうして、「こいつは使える、こいつはダメだ、飛ばせ」とい う作業をしましたが、辛光洙は優秀で生き残ります。 1976年に、日本から工作船で帰り、後に韓国で捕まりますが、その時の自 供では、76年に帰国後、様々な教育を受け、80年4月にまた日本に潜入しま す。 それまでは平壌にいたということになっています。 そうすると、めぐみちゃ んの拉致をやったかどうか分からない。 ところが78年7月7日の地村さん拉致の時は、地村さんは「見た」と言って います。 8月15日に未遂事件が起きますが、当時この事件を報じた「週刊朝日」 の記者が、実名を公表していませんが、未遂事件のカップルに辛光洙の写真を見 せたそうです。 「あ、これは記憶にあります」と証言しています。 私は、当時辛光洙は日本にいなかったので、未遂事件は辛光洙ではないと書い たことがあるんですが、めぐみちゃんのこと、地村さんのことを考えると、辛光 洙が出たり、入ったり平気でしていた。 しかし、そういうことは韓国の取調べで は一言も言わずに、「3年半、平壌で密封教育を受けていた」と。 初めは気合が入っているなと思っていたんですが、とんでもなくて、黙ってい ただけなんです。 私は今は、めぐみちゃんも、地村さんも、未遂事件も辛光洙が やったと思っています。 だから英雄にもなったのかなと思います。 西岡 その「週刊朝日」は、辛光洙が捕まった時です。 1985年でした。 下記をクリックして、ご意見を送ってください。 kantei. kmail. kantei. sukuukai. jp 担当:平田隆太郎(事務局長 info sukuukai.

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吉川英治 上杉謙信

市川いっかさつがい

7月10日(金)第2回学校運営協議会を開催しました。 第1回は学校休業中のため、書面での会議となりましたが、今回は再開後の学校の様子を見ていただくことができました。 子どもたちの授業の様子も廊下から参観していただきました。 委員の皆様からは、「新しい生活様式に向けていろいろな工夫がされている」「先生たちが配慮してくれているので安心して子どもが学校に通っている」「中・高学年は、学習に集中している」等の感想をいただきました。 また「今後も人とのかかわりを学ぶ学校の役割を大切にしてほしい」「体調のすぐれない時は登校させないよう各家庭との連携を」等のご意見をいただきました。 今後もいろいろなご意見をいただきながら円滑な学校運営に努めたいと思います。 ありがとうございました。 11:42 梅雨の合間の晴れ間。 今日も暑くなりそうです。 空調等を活用し、子どもたちの体調を見ながら環境を整えています。 月曜日ですが、元気に登校した子どもたち。 授業に集中する姿が見られます。 理科では、ニンジン、ブロッコリー、セロリを染色液につけた演示実験の観察をしていました。 算数では、ICTを活用し、巻き尺のメモリの読み取り方を確認していました。 図書室では、対面と隣を避けた座席で、静かに本の世界に浸っていました。 特別教室の中には、エアコンが設置されていない部屋もあります。 使用しない時間も換気したり、扇風機を回したりして、少しでも子どもたちが気持ちよく学習に取り組めるよう配慮しています。 11:23 三重県警察から保護者の皆様へ以下のような案内がありました。 ご活用ください。 三重県警察では、お子さんを交通事故から守るため、お子さん自身で、また、保護者の方を交えて交通安全について学んでいただけるよう、交通安全教育動画の作成、配信を行っており、6月19日に第二弾「横断歩道の正しい渡り方」の配信を開始しました。 内容について、収録時間は約3分で、(一財)三重県交通安全協会交通安全アドバイザーが三重県警察マスコットキャラクター「ミーポくん」と一緒に横断歩道を渡りながら安全確認の方法などを説明する内容となっており、小学生低学年の方でも御覧いただける内容となっています。 三重県警察公式チャンネルYouTubeで公開中ですので、是非ご覧いただき、交通事故防止にお役立ていただければと思います。 動画の内容につきましては、今後も随時更新予定ですが、ご希望の内容やご質問等がございましたら、下記の連絡先までお気軽にお問い合わせください。 少しずつ丈が伸びてきました。 学校再開後に1年生が植えたアサガオ。 毎日お世話と観察を続けています。 どの鉢も大きく弦を伸ばしています。 2年生の畑では、学校休業中に先生が植えた野菜たちが元気に育っています。 今日は涼しいので、2年生の子どもたちが畑の草抜きをしました。 また、四日市市教育委員会から、コロナウイルス感染症対策を可能な限り講じた上で、運動会を実施するという方針が出されました。 詳細については検討中ですが、種目を絞って半日(4時間程度 昼食なし)開催、児童席の密を防ぐ座席配置を予定しています。 さらに、観覧スペースの密を防ぐための時間指定や人数制限等も視野に入れ、よりよい方向性を探っていきたいと思います。 来入児競技は今年度から実施しません。 まずは子どもたちの安全のため、コロナウイルス感染症対策を優先し、運動会実施に向け検討します。 ご理解ご協力をお願いいたします。 10:15 臨時休校中には、健康観察表の記入や家庭学習への声かけ等、ご理解ご協力いただきありがとうございました。 学校が再開されて2週間。 コロナウイルス感染症の防止のため、いろいろな制約はありますが元気よく学校生活を過ごしています。 先日、道徳の学習でコロナウイルス感染症にかかわる偏見、いじめ・差別を防止する取組として「あなたならどうする?もやもやの理由」という学習をしました。 授業中にせきをしただけで、コロナだよと決めつけてふざけている友だちに対して、「せきをしただけでコロナだと勝手にきめつけたらだめと注意したい。 」「せきをして体調が悪い友だちがいたら、大丈夫と声をかけたい。 」と考えることができました。 さらに、コロナウイルスのことでからかったりふざけたりすることは、感染した方やその家族、感染のことを心配しながらも、私たちのために働いてくれているお医者さんやごみを集めてくれている方等の気持ちを考えていない言動であることだと気づくことができました。 この学習全体を通して、自分の言動で誰かを傷つけたりしないよう、人の気持ちを考えて行動する大切さを学ぶことができました。 15:56 ニュースなどで新型コロナウイルス感染症にかかわる偏見、いじめ・差別についての報道を見かけます。 本校では、普段からすべての教育活動の中で人権教育を大切にするよう心がけているところですが、各学年や学級の実態に応じて、不確かな情報に惑わされず、偏見やいじめ・差別をなくすための行動力を育てる実践を進めています。 1年生では、「せきをしたともだち」、4年生では「あなたならどうする?」という学習をしました。 せきをしただけだから、コロナウイルスに感染していると決めつけずに、相手の気持ちや体調を気遣うと答える子どもたちでした。 きっとこれからも差別的な言動に同調することなく、正しい判断をしてくれるものと期待しています。 14:22 5月25日(月)全校児童での登校が始まりました。 登校の様子を見に行きましたところ、何人もの地域の皆様が付き添っていただいていました。 ありがとうございます。 感染防止に配慮しながら、それでもしっかり学習できるよう工夫していきます。 先週、分散登校の際、子どもたちに簡単なアンケートを実施しました。 「学校が休みの間に、つらい気持ちや苦しい気持ち、イライラしたりしたことはありませんか。 」「学校へ登校して、不安なことや心配なことはありませんか。 」などの設問に答えてもらいました。 (写真参照) 今後も、ストレスや心配を抱えている子どもたちはいないか、担任を中心にしっかりと見守っていきます。 本日配布の学校だよりにも掲載しましたが、ご心配なことがありましたらお気軽にご相談ください。 14:12 2月6日木曜日に、体育館のグランドピアノの調律が行われました。 4年生は音楽の時間に、その様子を間近で見せていただくことができました。 8000もの部品でグランドピアノはできているそうで、1つの鍵盤には3本ずつの弦が張ってあるなどの構造や、鍵盤をたたくとその弦をハンマーのようなものが弦を下から叩くことで音が出るという仕組みも教えていただきました。 調律師さんは絶対音感を持っておられるようで、わずかな音の狂いも分かるそうです。 4人の子も音を合わせる作業を体験させてもらいました。 また、この日はピアノの演奏家の方にも来ていただき、調律を終えたピアノで、有名なクラシックの曲や、校歌、さらにはみんながリクエストしたアニメのテーマソング等を演奏していただきました。 生の演奏をグランドピアノを囲んで聴くという、とても贅沢な時間を体験することができました。 調律師さん、演奏家さん、ありがとうございました。 19:16 1月16日に社会科の「昔のくらし」を学びに四日市市立博物館に行きました。 昔の道具のコーナーでは、担任の先生に紙芝居を読んでもらいました。 昔は紙芝居屋さんから駄菓子を買い、買ったお菓子を食べながら紙芝居を見たそうです。 触ることのできるコーナーもあり、アイロンや洗濯板、電話などの使い方を知りました。 学校コーナーでは、今とは違った机と椅子に子どもたちは嬉しそうに座ったり触ったりしていました。。 教科書も薄くて昔はどんな勉強をしていたのだろうと、興味津々に見ていました。 ポスターコーナーでは、しおりにあるクイズ 商品名と同じ模様の着物を着ているポスターや指輪をしているポスターを見つけよう を解こうと、一生懸命にポスターを見ていました。 暮らしのコーナーでは、戦前と戦後の暮らしの違いを知りました。 戦前はテレビもなく、掃除もほうきでしていたのがわかりました。 戦後は、テレビや洗濯機がありました。 15:13.

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