ひめゆり の 塔 心霊。 ひめゆり学徒隊

戦争のおそろしさ、人間の命の尊さを教えてくれます

ひめゆり の 塔 心霊

手前の石像がひめゆりの石像 奥がひめゆりの女神像 慰霊碑 沖縄戦に動員された県立第一高等女学校と 沖縄女子師範学校の生徒と職員204名を奉る。 この塔の下の壕内で陸軍病院第三外科の 女子学生32名、職員4名、看護婦17名、 炊事婦4名のほか、多くの兵隊、住民が亡くなった。 沖縄陸軍病院第三外科壕が正式名称 第三外科壕 女学生や先生がたくさん亡くなった場所である。 昼間に来たかったが、日が暮れてしまった。 1945年6月18日の解散命令後、戦場をさまよい、 多くの学徒が悲運に倒れた。 現在のひめゆりの塔の場所は第三外科壕の跡で、 米軍の攻撃で一挙に46人の学徒、職員がなくなった。 観光をしよう!と言うことになり 『ひめゆりの塔』に行きました。 午後5時を過ぎていると言うこともあり 資料館なども閉館しており観光客も私と姉を含め5人だけ。 不気味なくらいに静まりかえっていました。 私はビデオカメラを回して慰霊碑や千羽鶴などを撮影し 『何でこんなにも静かなんだろうね・・』なんて言っていました。 そして地元に帰りビデオをTV画面で見ることにし、 再生すると・・・。 怖いくらいに静まりかえっていたはずなのにスピーカーからは 飛行機が近くで飛んでいるような爆音が聞こえていました。 あれは一体何だったんでしょうか。 戦時中に飛んでいた戦闘機だったのではないかと 私は思っています。 タクシーを一日貸切りで観光したのですが、 ひめゆりの塔を皆神妙な面持ちで観てまわっていると、 例の穴の所で 運ちゃん「じゃ、ここで記念写真とろうね~はい、笑って、 ピースしてぇ~」 私達 「・・・えっ?」 彼はサービス精神旺盛な人で、その他の戦跡でも 写真をとりまくってくれました・・・ いらんって言ってるのに。 結局ひきつった笑顔の私達しか写ってなかってけど、 本当に罰当たりなことをしてしまいました。 前に家族と旅行したときは、沖縄で撮った写真全部に 変な光線が沢山はいってました。 同じフィルムでとった他の写真は大丈夫だったのに・・・ 両親もびびりまくってましたが、 お払いはしないままです。 怖い話「」 怖い話「」 怖い話「」.

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ひめゆり学徒と犠牲、大田さん一家の慰霊祭 親族が初参加 糸満・赤心之塔 /沖縄

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概要 [ ] 慰霊碑の名称は、当時第三外科壕にとして従軍していたにちなんでいる。 「ひめゆり」は学徒隊員の母校、の校誌名「乙姫」と女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、元来は「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになった。 なお、植物のとは関係がない。 「塔」と名はついているが、実物は高さ数十センチメートルでそれほど高くはない。 これは、終戦直後の物資難な時代に建立された事と、統治下に建立されたという事情によるものである。 また、この種の慰霊碑は、沖縄県(特に)には非常に多くあり、ひめゆりの塔はそれらのうちで一番古いものではない(最古のものは、ひめゆりの塔と同じく金城夫妻らがに建てた「魂魄の塔」(こんぱくのとう)であるとされている)。 しかし、にによって碑に関する逸話が化されると、直後に戯曲化され、さらに同名のが作られ有名となった。 の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして、現在でも参拝する人が絶えない。 ひめゆりの塔から外科壕跡を挟んだ奥には慰霊碑(納骨堂)が建てられており、さらに、その奥には生存者の手記や従軍の様子などを展示した「」がある。 また、敷地内や隣地には沖縄戦殉職医療人の碑など複数の慰霊碑や塔が建てられている。 歴史 [ ] 、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院にとして従軍した。 しかしその後激しい戦闘が続き、日本軍の防衛戦が前田高地附近に撤退した頃には山容が変わるほどの激しい砲撃にさらされるようになったため、には陸軍病院そのものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜んだ。 この際患者を収容する壕が確保できなかったために負傷兵は原隊への復帰が命じられ、病院としての機能は失われていたという。 戦局が絶望的になると、、学徒隊は解散を命じられる(看護婦採用試験合格者を除く)。 しかし、既に沖縄のほぼ全域をが支配しており、また周辺も既に激しい砲撃にさらされていたため、地下壕から出ることはほとんど死を意味した。 最も被害を受けたのは第三外科壕の学徒隊である。 第三外科壕は19日朝、などの攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡した。 さらに壕の生存者8名のうち教師1名 玉代勢秀文 と生徒2名 仲田ヨシ、又吉キヨ は壕脱出後に銃撃され死亡したとみられる。 従って、第三外科壕にいた人々のうち沖縄戦終結まで生き残ったのはわずかに5名(ひめゆり学徒隊の生徒が4名、軍医が1名)のみである。 文学作品などでは、である黄燐手榴弾の攻撃をによるものと誤認しているが 、毒ガス手榴弾は米軍では使用していなかった。 なお、化学兵器になると現地司令官の裁量で使用出来るものではなく、使用には少なくとも方面軍司令官の命令が必要になる。 第一外科壕、第二外科壕は、アメリカ軍の攻撃を事前に察知し、19日未明までに地下壕から脱出した(そのうちの一部は第三へ避難)。 しかしこれらの学徒隊もその後の激しい戦闘で多くが死亡した。 戦後、戦死した生徒の親である金城和信らによって壕が発見される。 その後、アメリカ軍によってこの地に住むことを命じられて住んでいたの人らによってが集められ、4月に慰霊碑が建てられた。 という名称は動員当時から存在したが(ただしひらがな書きが用いられるようになったのは上述の通り戦後になってから)、兵士らにとっては所属校がどこであるかはほとんど問題にならなかったので、実際にはこの呼称はほとんど用いられず、学生さん、学徒、などと呼ばれていたという。 なお、以外にも他の学校の生徒を集めて作られた学徒隊は別にあり、それぞれ所属校にちなんだ名称がついていた(県立首里高等女学校のなどが有名)。 これらの学徒隊もほぼ同様の運命をたどり、それぞれの名にちなんだが建てられている。 なお、併設されている開館20周年を記念して(平成21年)6月23日()に全面改修され、これまで記載漏れがあった生徒の名前が新たに記された。 ひめゆり平和祈念資料館 [ ] 、ひめゆりの塔の隣接地に建てられた。 詳細は「」を参照 文献 [ ]• 石野径一郎『ひめゆりの塔』()、1988年、• 伊波園子『ひめゆりの沖縄戦 一少女は嵐のなかを生きた』(岩波ジュニア新書)、1992年6月、• 小林照幸『21世紀のひめゆり』、2002年11月、• 仲宗根政善編著『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』(改版、角川文庫)、1995年3月、• 宮城喜久子『ひめゆりの少女 十六歳の戦場』高文研、1995年6月、• 宮良ルリ『私のひめゆり戦記』ニライ社、1995年、• 吉田司『ひめゆり忠臣蔵』(増補新版)、太田出版、2000年7月、• 和歌森太郎ほか『語りつごうアジア・太平洋戦争 8 ひめゆり学徒隊』岩崎書店、1995年1月、• 『ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック』(新版)、2004年8月• 『ひめゆり平和祈念資料館 資料集3 ひめゆり学徒隊』、2004年12月• 財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会『続ひめゆり -女師・一高女沿革誌続編-』、2004年6月 アクセス [ ] バス路線 梯梧の塔入口: 白い看板は最近立てられたもの 敷地内に複数の慰霊碑などがある他、東側の隣地(土産物販売店の奥)には「梯梧の塔」(でいごのとう)が建てられている(読谷村にある同名の塔とは別のもの)。 また、敷地の前の道路を西に1〜2分歩いたところに第一外科壕跡への入口があり(壕へはそこから南に徒歩で1〜2分)、南西に車で5分ほどのところには山城陸軍病院本部壕跡がある(敷地前の道路を西に行くと案内標識が立っているが、その先の道はわかりにくい)。 敷地前の道を西へ車で5〜10分ほど行った糸洲地区には第二外科壕跡が残っている。 やへは車で約5〜10分。 米須霊域への分岐点(車で1〜2分)附近には、「ずゐせんの塔」や「ひむかいの塔」など複数の慰霊塔がある。 この他、周辺には数多くの慰霊塔や慰霊碑が散在している。 本島南端の荒崎海岸には「ひめゆり散華の跡」碑がある。 2006年6月に案内標識が設置された(平和創造の杜公園西方の糸豊環境美化センター附近から)。 なお、「ひめゆりの塔」の敷地に入ってすぐ左手にもがあるが、これは避難壕の跡ではない。 生存者の証言に「附近の掃討戦が落ち着いたあと(8月頃)第三外科壕に行ったら、近くのガマが米兵のゴミ捨て場になっており、食べ残し(half-eaten や未開封の缶詰、菓子 sweets などが捨てられたため、食糧調達にもってこいであった」というようなものがあるが、これがそのガマである。 備考 [ ]• 内には第三外科壕を底から見上げた形で原寸大のジオラマが作られている。 また、同じく館内には南風原陸軍病院壕の一部を再現した原寸大模型があり、そこで以前は語り部の証言を直接聴くことができたが、語り部の高齢化により、2004年4月のリニューアル以後は証言映像の上映に切り替えられた。 「ひめゆりの塔の記」に記されている人数には、沖縄陸軍病院動員以外の人数が含まれている。 詳しくはの項を参照のこと。 金城夫妻らが建てたものとしてさらに「健児の塔」(平和祈念公園内)があり、これが「魂魄の塔」「ひめゆりの塔」に続く3番目の塔であるとされている。 ひめゆりの塔が建つ伊原第三外科壕や、附近の陸軍病院関係の壕(第一・第二外科壕、大田壕、山城本部壕など)は避難していた民間人を追い出して軍用壕としたもの(いわゆる「追い出し壕」)だといい、その住民の犠牲を悼む「赤心の塔」がひめゆり平和祈念資料館入口左奥に建てられている。 この事実は、有名となった哀話の裏に潜むもう一つの悲劇の存在を今に伝えている。 戯曲化や映画化などによって「沖縄戦の悲劇」の存在を世に知らしめたことは一定の評価がなされているが、その一方で「ひめゆり」にのみ世論の関心が集中したことでその他の学徒隊や慰霊碑などの存在を霞ませてしまったという指摘もある。 実際、他の学徒隊については、詳しい状況がほとんど明らかになっていない。 (昭和50年)、ひめゆりの塔を訪問中の皇太子・・夫妻に対し、沖縄解放同盟との活動家が火炎瓶を投擲した()。 脚注 [ ].

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【本当にヤバい】沖縄県の心霊スポットを霊視してみた

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大田さん一家の冥福と恒久平和を祈る親族の山城千代さん(右)=19日夕、糸満市伊原の「赤心之塔」 【糸満】1945年6月19日、摩文仁村(現沖縄県糸満市)の伊原第三外科壕に米軍のガス弾が投げ込まれ、ひめゆり学徒らと共に犠牲となった大田さん一家をしのぶ慰霊祭が75年後の19日、糸満市伊原の「赤心(せきしん)之塔」で開かれた。 「赤心之塔」はひめゆり祈念資料館の手前左側にある小さな慰霊塔。 裏には故・大田トシさんの3人の子どもと義母ナハさん、夫の一雄さんの名前が刻まれている。 慰霊祭は1993年に始まり、トシさんが亡くなった後も金光教那覇教会の林雅信さん(80)やひめゆり平和祈念資料館の職員、南風原町の子ども平和学習のOB「アオギリ.com」らが毎年慰霊祭を行っている。 今年で28回目となる慰霊祭には大田さんの親族が初めて参加した。 伊原第三外科壕はもともと住民が隠れていたガマ。 日本軍が住民を追い出し、野戦病院となるが、大田さん一家は義母のナハさん、9歳の義雄さん、5歳の繁子ちゃん、3歳の貞雄ちゃんがいたため壕に残ることを許された。 しかし米軍のガス弾を受け、たまたま壕の外にいたトシさんだけが生き延びた。 夫の一雄さんは防衛隊で戦死している。 慰霊祭では林さんが思いを込めて祝詞(のりと)を読み上げ、参加者と共に冥福を祈り、恒久平和を願った。 訪れた親族の一人、米須出身の山城千代さん(91)は一雄さんのめいに当たる。 最近まで赤心之塔の存在も分からず「おじさんの家族がまつられてることさえ知らなかった。 慰霊祭に参加できて本当に良かった」と涙ぐんだ。 林さんによると、生前トシさんは毎晩子どもたちの顔が目の前に出てきて、眠れなかったという。 初めての慰霊祭が行われた後「これでやっと安眠できる」と泣き崩れたと、林さんは語った。 (金城実倫).

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