飛鳥 時代 いつから。 飛鳥時代(あすかじだい)とは

飛鳥の歴史

飛鳥 時代 いつから

「職人尽絵詞」より(国立国会図書館蔵) 文/車浮代(江戸料理・文化研究家) 現代では、基本的に1日3食が当たり前ですが、これが定着したのは江戸時代・元禄期(1688~1704年)以降のこと。 江戸中期に、さまざまな産業の生産性が高まり、流通が盛んになるまでは1日2食が普通だったのです。 ではなぜ江戸中期になって、食事の回数が増えたのでしょうか? その理由としては2つの大きな社会環境の変化が考えられます。 どういうことか、以下にご紹介しましょう。 また庶民も、朝早くから起きてひと仕事終えたあとに朝飯を食べ、仕事の合間に遅い昼飯を食べていました。 時間帯こそ違いますが、身分の上下に関係なく、等しく2食だったのです。 それが、一説によれば、1657年に江戸を襲った「明暦の大火」の後、町を復興するために、各地から大工、左官屋などの職人たちが集まってきたことで、食を取りまく事情が変化したと考えられています。 彼らは肉体労働者ですから、当然1日2食ではお腹が減ってもちません。 とはいえ、いちいち食事のために家に帰ってもいられないので、江戸のあちこちに屋台や飯屋ができるようになり、にわかに外食産業が栄えたのです。 また、復興のために働いていた職人に、正午過ぎにも食事を出すようになったのがきっかけだった、とも言われています。 そのほか、戦国時代に戦いに明け暮れる武士たちが、体力をつけるため1日3回食事を取っていた生活習慣が、庶民にも浸透したのがだいたい江戸時代の中頃だったという説もありますが、浸透までに100年以上というのは、いささかかかり過ぎの気もします。 いずれにしても江戸中期以降、日本人の間で徐々に「1日3食」が当たり前になっていったのです。 それまで下層階級では、「行灯」(あんどん)に魚油を使っていましたが(怪談に出てくる化け猫が行灯の油を舐めるのは、魚の脂だからです)、これがまたとんでもなく臭く、部屋も煤けてしまうという代物でした。 といって、菜種油を使いたくても、こちらは食用になるくらいに上質で、「菜種油一升で米が二升買える」といわれるほど値段が高かったので、裕福な家ば別として、庶民は日暮れとともに寝てしまうのが賢明な選択でした。 しかし菜種油の値下がりに伴い、庶民も買いやすくなると、夜なべ仕事や夜遊びなどもできるようになりました。 となると当然、寝るのが遅くなり、1日の稼働時間も増えるので、やはり1日2食ではもちません。 そこで朝・昼・晩と3食とるようになった、というわけです。 * * * 以上、江戸中期になって日本人の食事が「1日3食」となった主な2つの理由をご紹介しましたが、いかがでしょうか? 1日3食になったこと、および外食産業が発達したことで、江戸の人びとにとっての食の楽しみはぐんと広がりました。 いろいろな店ができれば、「今日はあそこに行こう」、「いや、あっちの店の方が旨いよ」などという選択の幅も増えので、家庭料理だけでは、そういう心弾む食文化はなかなか広がっていかなかっただろうと思います。 さらに時代が進み、江戸っ子たちは文化元年以降、グルメランキングならぬ料理屋番付を発行し始めました。 実にフランスで「ミシュラン・ガイド」が刊行される100年以上前のことで、店々が味を競うことで、食文化がさらに発達したと言えます。 このように、江戸時代が日本人の食文化にもたらした変化は、非常に大きなものでした。 文/車浮代(くるま うきよ) 時代小説家/江戸料理・文化研究家。 大阪出身。 故・新藤兼人監督に師事し、シナリオを学ぶ。 JR両国駅「ー両国ー江戸NOREN」のアドバイザー、浮世絵展の監修他、TV・ラジオ、講演等で活躍中。 著書にベストセラーとなった『春画入門』(文春新書)と『蔦重の教え』(飛鳥新社)など多数。 近著に『超釈 北斎春画かたり』(小学館)、『勝山太夫、ごろうぜよ』(白泉社まねき猫文庫)がある。 国際浮世絵学会会員。 日本ペンクラブ会員。 転載にあたり、一部改変・割愛しました。 (編集部) 『』 著/車浮代 ワニブックス刊 世界無形文化遺産にも登録された「和食」のルーツは江戸時代にあった! 庶民のおかずとして発展した、粋でエコでヘルシーな「江戸料理」を『蔦重の教え』ほかで人気の時代小説家・車浮代さんが徹底解説。 江戸料理の発祥から、江戸っ子たちの食生活、蕎麦、うなぎ、鮨、天ぷらなど、当時世界一発達していた外食産業、グルメガイドやレシピ本の隆盛ぶりなど、貧しくても、とても豊かだった「江戸の食」の魅力を伝える一冊です。

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飛鳥時代には文字は使われていた?!日本独自の文字の誕生はいつ?

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五重塔 — 紀元前14000年頃 前14000年頃 — 前10世紀 前4世紀 — 後3世紀中頃 3世紀中頃 — 7世紀頃 0592年 — 0710年 0710年 — 0794年 0794年 — 1185年 10世紀初頭 — 12世紀後期 1167年 — 1185年 1185年 — 1333年 1333年 — 1336年 1336年 — 1573年 1336年 — 1392年 1467年(1493年)— 1590年 1573年 — 1603年 1603年 — 1868年 1639年 — 1854年 1853年 — 1868年 1868年 — 1912年 1912年 — 1926年 1926年 — 1989年 1945年 — 1952年 1989年 — 2019年 2019年 — 金堂(西院伽藍) (崇峻天皇元年)、馬子は丁未の乱で蘇我氏側についた泊瀬部皇子を大王に擁立したが()、次第に天皇と馬子の不仲が目立ち、(崇峻天皇5年)、蘇我馬子はに命じて崇峻天皇を暗殺させた。 こののち馬子は日本初のとなるを立てた。 (推古天皇元年)、聖徳太子(厩戸皇子)がに立てられ、摂政となったという。 (推古天皇11年)には、を制定。 聖徳太子がにを作り、仏教の興隆に力を注ぐなど、大王・王族中心の理想の国家体制作りの礎を築いた。 (推古天皇15年)、らをにとして遣わして、隋のに「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。 恙無きや。 」(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)の上表文(国書)を送る。 留学生・留学僧を隋に留学させて、隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めた。 (推古天皇28年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。 制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていた。 国造とは、に服属した各地の有力に与えられた一種の称号で、大和政権の的な性格を持つものである。 (推古天皇29年)に摂政であった聖徳太子が、(同34年)には蘇我馬子が、さらに(同36年)には推古天皇が没した。 日本歴史上初めての女帝の時代は36年間の長期に渡った。 舒明・皇極朝 [ ] 聖徳太子と推古天皇が没した後は、と子の(いるか)の専横ぶりが目立ったと『』には記されている。 推古天皇没後、有力な大王位継承候補となったのは、田村皇子と(聖徳太子の子)であった。 蝦夷は推古天皇の遺言を元に田村皇子を舒明天皇として擁立するが、同族は山背大兄王を推したため、蝦夷に滅ぼされる。 舒明天皇の没後は、大后であるが皇極天皇としてした。 さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや、(皇極天皇2年)、聖徳太子の子・山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治を恣にした。 ウィキソースに の原文があります。 孝徳朝 [ ] 牙彫(宮彫師作)。 (皇極天皇4年)ので、・中臣鎌子()らが宮中()でを暗殺し、を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした。 乙巳の変後、皇極天皇は弟の軽皇子に譲位し、新たにが即位した。 孝徳天皇は、日本で最初ののを制定するなど次々と改革を進めていった()。 『日本書紀』の記述によると、645年(大化)12月には都をに移している。 翌(大化2年)正月には、を宣して、政治体制の改革を始めた。 その後も、今までは蘇我氏の大臣1人だけの中央官制を・・の3人に改めた。 東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとある。 (大化5年)、この頃、(こおり)の制を定める。 (元年)、穴門国(後の)より献上されたにより、する。 天智朝 [ ] 孝徳天皇が死没した後は、中大兄皇子が政治の実権を握った。 中大兄皇子は何らかの理由により大王位には就かず、退位し皇祖母尊(すめみおやのみこと)を称していた母親・を、再度即位()させた()。 斉明天皇没後も数年の間、皇位に就かず、皇太子の地位で政務に当たった(天皇の位に就かずに政務を執ることをという)。 (天智天皇2年)、百済の国家復興に助力するためへ出兵したが、で新羅・唐連合軍に大敗した。 そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった。 (天智天皇3年)、にを守るを造り、・・など朝鮮半島方面のにや烽を置いた。 (天智天皇5年)には、日本国内の百済人2000人余りを東国へ移すなど、防衛施設の整備が進んだ。 (天智天皇6年)、都城も防衛しやすいに移された。 そのほか、大和にが築城されて、讃岐にが築城されて、対馬にが築かれている。 (天智天皇7年)に、皇太子だった中大兄皇子が即位して、となる。 (天智天皇9年)、全国的な戸籍()を作り、人民を把握する国内政策も推進した。 また、にを造った。 天武・持統朝 [ ] 天智天皇が没すると、天智天皇の弟である大海人皇子(後の)と、息子である(時代に弘文天皇とされ、歴代に加えられる)との間で争いが起こった。 (弘文天皇元年)のである。 この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人皇子が勝利、即位後に天武天皇となった。 天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた。 (天武天皇元年)の末に、宮をに移した。 官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。 (天武天皇10年)には、律令の編纂を開始した。 5年後の(元年)に、天武天皇は没する。 8年後の(持統天皇3年)には、諸氏に令1部全22巻で構成されるが制定され、頒布される。 律は編纂されず、唐の律令制度である唐律をそのまま用いたのではないかと考えられている。 三英舎『御歴代百廿一天皇御尊影』、。 人民支配のための本格的な作りも開始される。 (持統天皇4年)には、が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となった。 (持統天皇6年)には、畿内に班田大夫を派遣。 を基礎としたを実施した。 (2年)には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われ、国民1人1人が政府に把握されるようになった。 さらに、条里制による耕地の区画整理が進み、班田が与えられた。 (持統天皇8年)には日本初の本格的都城となるに都を遷した。 持統天皇は、子のに位を譲るつもりであったが、早世したため、孫であるを即位させる。 この間、のを基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、(文武天皇4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の(文武天皇5年)にが制定された。 これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による中央集権支配体制が完成した。 これをもって、一応の古代国家成立と見る。 はとによる二官八省制が採られ、は、国制度・郡制度・里制度が採られるようになった。 租・庸・調の税制が整備され、国家財政が支えられるようになった。 また、律令制度の施行に伴って生じた不備などを調整する目的から、が行われた。 文武天皇の死後、母のが即位。 (3年)に、へした。 飛鳥・白鳳文化 [ ] 「」および「」を参照 年表 [ ]• (25年) - 即位する。 (2年) - (みやけ)を多く置く。 (3年) - 仏教伝来(『』の説)• (欽明天皇元年) - 秦人・漢人の戸籍を作る。 (欽明天皇13年) - 仏教伝来(『』の説)• (欽明天皇32年) - 欽明天皇没する。 (元年) - が即位する。 (15年) 敏達天皇崩御。 (2年) - 仏教に帰依せんことを群臣に諮る。 と対立し、蘇我氏勝つ。 用明天皇没する。 (元年) - 崇峻天皇が即位する。 (崇峻天皇5年) - 崇峻天皇が暗殺される。 (推古天皇元年)- 厩戸皇子()がに立てられ、となる。 (推古天皇8年) - 『』によれば、より遣使。 (推古天皇11年) を制定する• (推古天皇12年) - 制定。 (推古天皇15年) -『』によれば、初の(大唐国と記載)。 『』では2回目と記載。 (推古天皇16年) -が答礼使として来日。 (推古天皇36年) - 推古天皇没する。 遺詔を巡って群臣争う。 (元年) - 田村皇子即位し、舒明天皇となる。 (4年) - ・ら、を宮中で暗殺する。 自殺する()。 軽皇子が即位。 となる。 (2年) - 改新の詔を宣する。 (5年) - 10月、孝徳天皇で没する。 (元年) - 1月、皇極天皇重祚し、斉明天皇となる。 (2年) - (はくそんこうのたたかい)で大敗する。 (天智天皇9年) - 全国的に戸籍を作る()。 (元年・元年) - 天智天皇没する。。 (きよみはらのみや)に遷る。 (天武天皇10年) - の編纂を開始する。 (4年) - 戸令により、を作る。 (持統天皇8年) - に都を移す。 (元年) - 持統天皇譲位し、文武天皇即位する。 (元年) - の撰定完成する。 (4年) - 文武天皇(25)没し、即位する。 (元年) - から銅を献上する。 改元する。 を発行する。 (和銅3年) - にする。 関連する人物 [ ]• 中大兄皇子()• 大海人皇子()• 中臣氏(、、)• 大友皇子()• 小野妹子 遺跡 [ ]• 中ツ道• 藤原宮跡 その他、飛鳥村の多数の遺跡 脚注 [ ].

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飛鳥の歴史

飛鳥 時代 いつから

わたしたち日本人は自分の国を「日本」とよびます。 この国が「日本」ということは、日本人なら誰でも、それこそ物心ついたばかりの幼い子供でも知っている常識ですよね。 でも、いつから「日本」と呼ばれるようになったか、あなたはご存じでしょうか? じつは「日本」という国名のルーツについて知っている人はあまり多くありません。 「日本」というのは、国号です。 歴史上で誰かがこの国の国号を「日本」と決めたのです。 そして代々その呼び名を受け継いできたから、現代のわたしたちも自分の国を「日本」と呼んでいるのです。 だれがなぜ「日本」という国名をつけたのでしょうか。 「日本」以前、この国は何とよばれていたのでしょうか。 今回は古代史をひも解き、「日本」という国名のルーツに迫っていきます。 「日本」はニホン? それともニッポン? 本題に入る前に、すこし話はそれますが、「日本」の呼び名について考えてみたいとおもいます。 「日本」は、「ニホン」だったり「ニッポン」だったり、二種類の読み方があります。 どちらの読み方が正しいかご存じですか? 正解は、「どちらでもかまわない」です。 どちらが正しいかなんて、国が公式に定めていないのです。 昔から「ニホン」と「ニッポン」、どちらの読み方も定着していました。 それではいかんと1934年(昭和9年)に当時の文部省の臨時国語調査会で、「日本」の読み方をどうするかについて議論がなされました。 そして「ニッポン」という呼称に統一する案が決議されたのです。 しかし、その決議は政府レベルでは採択されず、正式な読み方が決定されないまま現在に至っています。 かつて、「ひのもと」をあらわす「日本」は「やまと」と読まれていました。 「やまと」とはもちろん大和朝廷のヤマトのことです。 現在でも沖縄の人で、内地の人間を「ヤマトンチュ」とよぶひとがいますね。 奈良時代には、日本をヤマトと読むことが多かったのですが、ニッポン(もちろん発音は現代とは少し違います。 もともとは中国語読みで「日本=ニエットプァン」と読まれていました)という中国語の発音に近い読み方もひろまっていきました。 そして時代がすすみ室町時代になると、「ニッポン」や「ニッファン」という二種類の日本語なまりな読み方が使い分けられるようになり、さらに江戸時代になると現代と同じような「ニッポン」と「ニホン」という二つの読み方が完全に定着しました。 近年NHKがおこなった調査によると、現在の日本人の約60%が「ニホン」と読み、残りの約40%が「ニッポン」と読むそうです。 日本はむかし、どのようによばれていたのか? 日本という国ができるずっと昔、日本は「倭(わ)」とよばれていました。 ただ、この「倭」という呼称は国号ではありませんでした。 古代中国の歴史書に「倭国」や「倭人」という語が登場します。 「倭」というのは、当時の中国や朝鮮などの大陸の人々が、日本に住む勢力(国としてまとまりつつあった強い勢力)を表現する呼び名だったのです。 日本列島に住んでいた人々が自分たちの国を「倭」とよんでいたわけではないのです。 「倭」の範囲は日本列島にとどまらなかった 現在は国と国の境に国境がひかれ、簡単に行き来することはできません。 しかし古代には、現代のような国境線という概念はありませんでした。 日本の古代人も対馬海峡を渡って朝鮮半島と自由に、それも頻繁に行き来していましたし、東シナ海を渡って中国沿岸部へも行き来していました。 「倭」というのは、地域的に日本列島(主に九州や本州の一部)だけを指す言葉ではありませんでした。 倭は、朝鮮半島の南部も指しましたし、ときには中国大陸の東シナ海沿岸部のことも指しました。 もともと「倭人」は海洋民族でした。 『魏志倭人伝』には、刺青や生活習慣など、倭人が海洋民族である特徴が記録されています。 海洋民族の倭人は、現在の国境など関係なく、東シナ海や玄界灘、対馬海峡そして日本海など、海を自由に行き来して広い範囲に倭人の拠点を築いていたのです。 私たちが考えるよりもずっと広い範囲をアグレッシブに移動し、広大な勢力圏をもっていたのが「倭人」だったのです。 そして、そんな倭人たちがいるエリアのことを、中国や朝鮮の人々が「倭」と読んでいたのです。 いつから「日本」とよばれるようになったのか 「日本」という呼称がいつ定められたのか。 何年何月何日に誰によって国号が「日本」と定められたのか、その具体的な詳細はわかっていません。 記録がのこっていないのです。 しかし、おおよそのことはわかっています。 「日本」という国号を初めて使ったのは天武天皇とされています。 天武天皇は、乙巳の変(645年)をおこして蘇我氏を滅ぼし、大化の改新をおこなった中大兄皇子(なかのおおえのみこ、のちの天智天皇)の実弟です。 天武天皇は大海人皇子(おおあまのみこ)とよばれていました。 天智天皇が崩御したあと、壬申の乱(672年)で大友皇子と戦い、勝利して天武天皇になりました。 天武天皇 この時代、天智天皇の失政によって、内政はがたがたになっていました。 最高権力を手にした天武天皇でしたが、国が滅んでしまうかもれないこの危機を、急いで立て直さなくてはいけなくなったのです。 古代最大の内乱である壬申の乱をへて、国内の勢力はバラバラになっていましたし、国力も疲弊していました、唐などの大陸の超大国がいつ攻めてきてもおかしくない状況だったのです。 天武天皇は、考えました。 この危機を乗り越えるために、我らは一つにまとまらなくてはならない。 文化も、政治も、歴史も、天皇を中心に一つにならなければ……。 つまり天武天皇は、「国」という概念を意識せざるを得なくなったのです。 そして「日本」が考えられたのです。 当時の東アジアの中心であった中国からみて「倭国」は東側の日が昇る方角にあります。 すなわち「日の本の国」。 そこから「日本」と名付けられました。 しかし、この「日の本の国」=「日本」という国名の概念は、もっと天武天皇よりもっと前からあったとおもわれます。 聖徳太子は607年、小野妹子(おののいもこ)ら遣隋使を派遣しました。 そのときに隋の皇帝・煬帝(ようだい)に渡した文書が、かの有名な、 日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。 恙無 つつがな)しや ここに書かれている「日出ずる処」はもちろん「日の本」をあらわします。 日本が「日が昇る場所にある国」という考えは、聖徳太子の時代にはあったのです。 飛鳥寺の聖徳太子立像 ちなみに、遣隋使のこの文書を読んで皇帝煬帝は大激怒したと言われています。 学校では、「小国のくせに自らを日が昇る処といい、大国である隋を日が没する処と表現するなど失礼だ」という理由で煬帝が怒ったと習ったひともいるかもしれません。 でもそれは間違いです。 隋の2代皇帝・煬帝 煬帝が怒ったのは「日出ずる処の天子」の「天子」という表現です。 天子、つまり皇帝は世界に一人の存在です。 それなのに、倭国の野蛮人が自分の国にも「天子」がいると言ってきた。 それに煬帝は激怒したのです。 なぜ、聖徳太子はそんな文書を煬帝に送ったのか。 そこには聖徳太子の世界情勢を分析する確かな目、1000年先もみすえた見事な政治力、たぐいまれなる先見の明があったわけですが、これはまたの別の機会に解説していきましょう。 かくして正式に「日本」とさだめられた 天武天皇の政策によって、制度やしくみが整えられ、天皇制は強固なものになりました。 国をまとめるために中国にならって律令制もしかれました。 689年に「飛鳥浄御原令」、さらにつづいて701年には「大宝律令」が制定され、それによって国号も「日本」に定められたと考えられています。 まえに書いたように、日本国内にのこる史料ではいつから「日本」とよばれるようになったのか、明確な記録がのこされていません。 ただ中国の史料によると、はじめて「日本」という国号が対外的に使われたのは、702年に派遣された遣唐使からだとされています。 以下は中国の歴代歴史書で、日本がどのように表記されているのかまとめたものです。 『後漢書』=倭 『三国志(魏志倭人伝)』=倭 『宋書』=倭 『隋書』=倭 『旧唐書』=倭と日本が併記 『新唐書』=日本 『宋史』=日本 『元史』=日本 『明史』=日本 『旧唐書』から「日本」という表記が登場します。 つぎの『新唐書』には、倭国の使者が「国名を倭から日本にかえる」と報告に来たというようなことが書かれています。 このことから、中国では唐の時代、西暦でいうと700年前後にわたしたちの国は正式に「日本」となったといえるでしょう。 千数百年以上つづく、世界でもっとも歴史ある「日本」という国 倭からヤマトへ、そして「日本」になり、その国号が現在にまで引き継がれている。 わたしたちが当たり前に使っている「日本」という国名には、こんなルーツがあったのです。 「日本」という国号は、千数百年も使われ続けています。 これは世界的にみて驚くべきことです。 中国も朝鮮も、ヨーロッパの国々も、長い歴史のなかで国号はころころと変わってきました。 王朝が滅べば国が変わるのは当たり前です。 国がかわれば国名もかわります。 しかし日本は、ずっと日本のままです。 これは日本という国のかたち、体制が変わらなかったことを意味します。 1945年の終戦直後には天皇廃止論が出たこともあります。 いまも天皇制廃止を訴える人がいます。 しかし、天皇を廃止するということは、日本という国号も変わってしまうということなのです。 もちろん国旗も国歌もすべて変わってしまいます。 日本という国は、天皇という存在をもとに考え、作られた国なのです。 だから天皇という存在を無くしてしまうと、千数百年以上つづいた世界でもっともながい「日本」の歴史はいったん断絶してしまうことになるのです。 「日本から天皇制がなくなった」だけで済む話ではないのです。 世界の王朝推移年表(日本は最下段に) この国のかたちを知るには 「日本」とはどのような国なのか。 近現代史を学ぶだけでは、わからないことがたくさんあります。 残念なことに、学校教育や受験勉強では古代史は、さくっと飛ばされることが多いようです。 しかし古代史を学ぶことで、本当の意味でこの国のかたちを知ることができるのです。 日本という国号が制定された天武天皇の時代は、古代史でも屈指の激動の時代でした。 政治や文化、さまざまな制度が大きく変動しました。 そして天武という強い天皇のもと、再出発の舵を切りました。 関連する記事• 2019. 26 目次 1. 文献だけではわからないことがある2. オカルトとは何か3. オカルティズムで理解する古代人の精神と行動4. 「隠されたものへの探求」こそ古[…]• 2018. 20 わたしたち日本人は、あたりまえのように名字を使っています。 日本人の名字はどれくらいあるかご存じですか? その数、なんと30万種類です。 ちなみに一番[…]• 2020. 07 日本は地震大国です。 日本に住んでいる限り、地震から逃れることはできません。 日本はなぜこれほどまでに地震が多い国なのでしょうか。 とくに近年、地震が多い[…].

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